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日本国内の捕虜収容所
日本国内では、函館、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡に捕虜収容所の本所が置かれた。これらの管轄下にはそれぞれ10〜30の分所や派遣所が置かれ、その数は、途中閉鎖を含めると延べ130ヵ所に及ぶ。収容所はたびたび移動し、また名称が変わり、特に最後の10ヶ月には空襲による損傷のためそれが頻繁であった。全収容所の詳細についてはPOW研究会ホームページhttp://homepage3.nifty.com/pow-j/j/00100camp/campinjapan.htmを参照
阿里山丸
日本の貨物船、阿里山丸(6686トン)は1944
年10 月24
日に中国の南東海岸沖200マイルで、米潜水艦スヌーク号による魚雷攻撃を受けた。阿里山丸は1800
人の捕虜を乗せ、1944 年10
月11
日にマニラを出航し、パラワン島の近くで数日停泊した。より多くの物資を積むためマニラへ戻ってのち、再び1777
人の捕虜を乗せて出航した。それまでにすでに23
人の捕虜が死亡していた。船が沈没した後、5人が一団となっていた捕虜が中国の漁船によって救助された。ほかに2名が日本人によって救助され、あとひとりは自力で岸に泳ぎつき救助されたことがわかっている。
バターン死の行進
バターン半島の南端から、捕獲した推定70,000人のアメリカ及びフィリピンの捕虜を北へ約60
マイルの地点にあるサン・フェルナンドの列車の駅まで、強制的に歩かせた行進を指すことば。1942
年4 月9
日に降伏ののち、マラリヤと厳しく減らされた食糧割り当てとで、すでに弱っていた推定1200
人のアメリカ及び10,000
人のフィリピンの兵士は虐待と意図的な殺人で命を落とした。捕獲された地点から捕虜たちは最高で6
日間、ほとんど休憩もなしに行進させられた。食糧や水の給与を拒絶され、彼らは疲労で倒れ、その場で銃撃されたり、銃剣で突かれたり、または首を刎ねられたりした。捕虜たちは非常な高温多湿に悩まされた。サン・フェルナンドで、彼らは熱気のこもる金属製の有蓋貨車に詰めこまれ、カパスへ移送された。途中で死んだ者も、貨車にあまりに多数が詰め込まれていたため、立ったまま終点に到着した。
バターン半島
マニラ港入り口の北側にある半島。アメリカ及びフィリピンの軍隊は本間雅晴大将の率いる日本軍に対して4ヶ月間ここで持ちこたえた。エドワード・キング大将率いるアメリカ軍は1942
年4 月9
日に降伏した。
ビリビッド刑務所
戦争の間、連合軍捕虜を収容するのに日本軍が使用したマニラ中心部の南東にある一般市民の刑務所。この刑務所はまた日本及び満州への輸送のためにマニラを通過する捕虜の中継点でもあった。収容所は1945
年2 月4
日にウィリアム・チェイス旅団長の指揮する第1 騎兵隊の分隊数個によって解放された。
ブラジル丸
(ブラジル丸という船名を持つ第二の船。第一のブラジル丸は1942年7月29日トラック島近くで米潜水艦グリーンリング号に撃沈された。)ルソン島から台湾を経て日本の門司まで鴨緑丸の生存者の多くを運んだ2隻の船のひとつで、あとの一隻は江之浦丸だった。ブラジル丸は捕虜250人を乗せて1944年12
月27
日にマニラを出発し、5名が輸送中に死亡した。高雄で江之浦丸の生存者たちはブラジル丸に移され、ブラジル丸は1945年1
月14 日に高雄を出航し、1945
年1 月29
日に門司に着いた。
泰緬(タイービルマ)鉄道
捕虜と、徴用された地元の労働者(ロームシャ)によって建設されたタイの死の鉄道。タイ(シャム)湾のバンコク港とマルタバン湾のモールマイン港をつなぎ、マレー半島を横切るタイの死の鉄道。マレー半島を横切ることにより、ラングーン・ビルマ地域の日本軍への船便による補給を何千マイルも短縮できるという目的で鉄道は敷設された。20万人以上がこの鉄道建設で死んだと推定される。「枕木一本につき、一人が死んだ」と言われている。
カバナツアン収容所
捕虜収容所として使用された2
つの、フィリピン軍の未完成トレーニング・キャンプのうちのひとつ。最初の場所は使用開始後一ヶ月しないうちに、居住不可能な設備が原因で放棄され、捕虜たちはカパスの東、約8
マイルにあるカバナツアン#3に移された。コレヒドールの捕虜たちは直接ここに送られ、オドネルのいた捕虜たちは、入所後2、3週間の収容所移設の時点で移送された。
カパス
オドネルへ、またオドネルからカバナツアン捕虜収容所へ捕虜たちを移送する際に使われた鉄道駅。
コレヒドール
マニラ湾への入口を守る要塞の島。バターン半島降伏[
1942 年4 月9 日]
の後、連続的な攻撃を受けて、1942 年5
月6 日にウェインライト将軍の命令によって島は降伏した。日本軍は1941
年12 月25
日にマニラ市を掌握したが、コレヒドールを手に入れるまで、港は使用できなかった。
江之浦丸
鴨緑丸の生存者をルソンから台湾を経て門司へ運んだ二隻の船のひとつ。江之浦丸は約1070人の捕虜を乗せて1944
年12 月27
日に出航、その途上および1945 年1 月9
日、高雄で受けた戦闘機および爆撃機による攻撃で360人が死んだ。生存者はブラジル丸へ移された。
地獄船
捕獲たちを捕獲地から日本帝国内の強制収容所へ輸送するのに使用された日本の船に与えられた名称である。日本人はPOWs
を輸送中として船に印を付けることを拒否し、そのために多くの船が多大な生命の損失とともに沈められた。
本間雅晴
"詩人将軍"
として知られていた本間雅晴将軍は、連合軍戦争犯罪軍事裁判により、特にバターン死の行進での残虐行為、それにつづくオドネルおよびカバナツアン捕虜収容所での残虐行為のかどで有罪変決を受けた。本間将軍はマニラにおいて1946
年4 月3
日に処刑された。
奉天(ムクデン)捕虜収容所
奉天捕虜収容所は、北京からおよそ400
マイル北東の既存の機械類の製造工場だった。今は瀋陽という名で知られている。最初のアメリカ人捕虜は1942
年11 月に鳥取丸で着いた。主要なプロジェクトは工作機械の製造(MKK)
だったが、さらに3つの付随した収容所で布製品生産そして製革作業に雇われた。最初の年は、暖房のない建物に収容され、たくさんの捕虜がMKKの従業員による無視の結果として死んだ。
リンガイェン
ルソン島の北西側にある湾。1941年12月22日、日本軍によって侵入された。日本軍は南のマニラの方角に進んだ。ケソン大統領の承諾を得て、マッカーサー元帥は1941
年12 月25
日、マニラを無防備都市と宣言し、コレヒドールに移った。この湾はまた、1945 年1
月9
日、連合軍による第二の(レイテののち)重要なフィリピン侵入地点であった。
ロス・バニョス一般市民抑留所
マニラの南およそ68
キロメートルの地点にある内陸湖ラグナ・ド・ベイの南岸にある一般市民抑留所。1944
年5 月14
日に開設され、やがて2147 人の民間人捕虜を抑留した。1945
年2 月23
日、最前線からさらにずっと奥に入った日本軍地域での果敢な救助活動で、陸軍レンジャー部隊、空輸部隊、およびゲリラ部隊が同時に攻撃し、被抑留者全員を救助した。
マリべレス
コレヒドール島から真向かいにある、バターン半島南端の小さい浜の港。多くの捕虜は、この地点からバターン死の行進を始めた。
オドネル収容所
オドネル捕虜収容所は戦争が始まったときにはまだ建設中であったフィリピン軍のトレーニング・キャンプ・サイトに設立された。バターンで降伏ののち、生存者は1942
年4 月9
日からここへ到着しはじめた。収容所全体に水を供給するのに、ただ1 個の水栓しかなかった。キャンプには2
つの主だった区分けがなされ、ひとつはアメリカ人用、ひとつはフィリピン兵士用だった。医療も薬もなく、およそ1200
人のアメリカ人捕虜が2ヶ月以内に死んだ。推定25,000
人のフィリピン兵士が同じ期間に死んだ。
大牟田収容所
大牟田捕虜収容所は福岡第17分所としてつくられた。日本の最も大きい捕虜収容所のひとつで湾に面し、熊本から13マイル北西、福岡市の南40
マイルの地に、1943 年8
月7 日に開設した。1700人の連合軍捕虜が三井鉱山株式会社所有の旧式の炭鉱を操業するために使役された。捕虜たちは三井鉱山株式会社の従業員によって様々な面で虐待を受けた。
鴨緑丸
"12
月の地獄船群"
の一隻である鴨緑丸はマニラから日本に約1620人の捕虜を運ぶのに使用された。バターン半島の北側沿岸のスビック湾オロンガポ港の近くで爆撃機と戦闘機によって攻撃された。1944
年12 月14
日に最初に攻撃されて、日本人乗組員は海岸に避難した。次の朝、さらに多くの戦闘機が船を攻撃し、300人余りの捕虜がこの攻撃で殺された。生き延びた捕虜たちは海岸まで泳がされ、生存者は米国海軍の駐留基地オロンガポのテニスコートにあふれた。けが人は運びさられて、虐殺された。残っった者たちはリンガエン湾の海岸の町サン・フェルナンドに移され、江之浦丸[
1069 人] [台湾の高雄で、1945
年1 月9
日に爆撃機によって攻撃された] 、及びブラジル丸[ 236人と推定される]に乗せられた。江之浦丸の生存者は最終的に、1945
年1 月14
日に高雄を出航したブラジル丸に移された。ブラジル丸が1945 年1
月29 日に門司に着いたとき、当初1620人だった捕虜のうち、約450人だけが生存していた。
パラワン虐殺
ルソン島の西に位置するパラワン島はプエルタ・プリンセサ捕虜収容所のあった場所である。500人を上回るアメリカ捕虜たちが、滑走路拡張のために奴隷のように使役された。1944年12月初旬ごろには、労働作業人員は150人までに減っていた。付近を通過するアメリカ軍艦の艦隊を見た後、日本軍の収容助長は残りの150
人の囚人を処刑することにした。米軍による空爆を策略として用い、1944
年12 月14
日に、捕虜たちは防空壕として使用された地下壕に追い込まれた。上から、そして両端からガソリンが注がれ火がつけられた。たちどころに焼死しなかったものは逃亡を試みた。しかし機関銃の砲火になぎ倒され、追い詰められ撃たれた。11
人が脱出に成功し生き延びて証言した。作業をやらせた日本軍収容所長は裁判にかけられ有罪判決を受けて絞首刑に処せられた。
サント・トマス一般市民抑留所
マニラの都心からすぐ東の一般市民抑留キャンプ。以前はサント・トマス・ドミニカ大学だったが、日本軍がそのキャンパスを敵性一般市民を抑留する場所として選んだ。1945
年1 月4
日に開所され、7000 人を超える一般市民が短期に、また長期間この抑留所に入れられた。1945
年2 月3
日の救助時点には4000人がいた。
テンコ
日本語の点呼がそのまま使われた。その間、捕虜たちは気をつけの姿勢で直立をし、点呼が終わり休めの号令までそのままでいなくてはならなかった。頻繁な殴打が点呼では恒例だった。点呼は朝および夕方、そして捕虜の移動が完了した時はいつでも取られた。
ウエーク島
グアムとミドウエイの中間にある太平洋中央の島。サンフランシスコから香港に飛んだパン・アメリカンのプロペラ式大型旅客機の夜間停泊地の1
つだった。マーシャル群島のロイの滑走路から飛び立った日本機によって12
月8 日に最初に攻撃された。最初の日本の侵入軍は1941
年12 月11 日に撃退されたが、12
月23 日の第2回の
侵入は成功し、4 時間以内にアメリカ人は降伏した。1500
人余りの捕虜が捕獲されたが、殆んどは一般市民の請負業者だった。5000
人以上の日本の兵士および水兵が戦死した。日本人は次のように島の名前を変更した:
ウエーク小島は大鳥島、とウィルクス小島はアシ島、ピール小島はハニ島となり、孔雀ポイントはクビ崎となった。捕虜たちは新田丸で日本と上海に移送された。けが人は浅間丸で1942
年の5 月に運ばれた。1943
年10 月7
日に、残りの98
人の民間人抑留者たちは機関銃で殺された。島の司令官は戦争犯罪で裁判にかけられ、処刑された。
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