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兵士が
ケネス
・マーフィー氏による前書きから ジェームス T.マーフィーは、ラジオ通信士の資格を取って米国陸軍航空隊に志願したとき、テキサス州南東部出身の18歳の若者だった。1939年、彼はフィリピンで2年間の任務に就くため、サンフランシスコに向かった。 この本は、第二次大戦前夜と戦争中に起こったことを書いているが、戦争物語ではない。 この本には、多くの政治的事実・行為・決断が散りばめられているが、政治物語ではない。 この本は、人類の全ての物語の中で最も重要な戦いの一つで起きた主要な歴史的事実を綴っているが、歴史大作ではない。 この本は、一人の人間の個人的歴史であり、それは道徳的物語とさえ解釈できるかもしれない。ある人々にとっては、世代や性別や地域を越える希望の光となる物語かもしれない。それは、ジェームス・トーマス・マーフィーが混乱と破壊に満ちた世界で体験した苦難と悲劇と勝利について、私的な詳細を彼自身の言葉で記録するため、彼と共に、そして彼によって書かれた物語である。 この本は、第二次大戦中の出来事や相対する軍事・政治指導者の決断などに関する歴史的記録を確固なものとするために、書かれた。 そして最終的には二つの目的、社会への警告と個人へのインスピレーション、に役立つことを願って書かれた。
第2章から フランクリン・ルーズベルト政権の陸軍大臣ヘンリー・スチムソンは1942年1月、冬の首都ワシントンで第二次大戦緒戦の戦略を練る中、凍りつくようなその言葉を口にした。 彼は、アドルフ・ヒトラーのナチス、ベニト・ムッソリーニのファシスト、ヒロヒト天皇の皇軍に対するアメリカ人の戦意を高揚させるために、空虚な政治レトリックをまくしたてたのではなかった。 彼は、つい先ごろの開戦を踏まえて、敵国に対する計算された復習の警告を発したのでもなかった。 皮肉なことに、スチムソンは、1941年12月7日の壊滅的な真珠湾奇襲攻撃直後から占領されたフィリピン諸島で、今まさに取り残され― ある者は”見捨てられ”と後になって言ったであろう― 四面楚歌となった何万人もの自国兵の運命を、予言していたのだった。 米国が日本と交戦状態に入ってから、わずか8週間しか経っていなかった。
(フィリピンのニコルス飛行場に着任したマーフィー氏, 1939年)
マーフィー: 私たちは約200人の小グループに分けられ、日本軍が私たちを早く移動させようとするにつれて、野蛮な残虐行為が増えていった。私たちがさらに疲労困憊して歩けなくなると、殴打や殺人が増えた。食料と水の不足、そして病が、私たち一人一人に打撃を与えていた。 疲労と病と飢えと脱水状態から生存能力の極限に至った多くの捕虜たちは、列の最後に行けば医療手当て、食料、水、そしてトラックでの輸送が提供されるのではないか、という絶望的考えを抱いた。彼らは、この過酷な体験をそれ以上続けられないことを知っていた。 多くの捕虜が行進グループの最後に落伍していくにつれ、私は、恐ろしい混乱、怒鳴り声、殴打、そして銃声を聞くことができた。 私自身も、行進の苦痛にもはや耐えられないことに気づき始め、少しずつ列の最後に落伍して行った。私が期待したのは、少し休憩して息抜きすること、そしてできたら私たちが向かっているに違いない未知の捕虜収容所にトラックで運んでもらえないか、ということだった。 列の後部に行った私が見たのは、食料や水や衣料品や輸送手段といった助けではなく、最悪の残虐行為と野蛮行為だった。 列について行けなくなった捕虜は、棒や銃の台尻で打たれ、なす術も無いまま、銃剣や軍刀を持った日本兵に襲われた。 仲間の捕虜が列について行く力を振り絞ることができないと、日本兵のならず者班 (私たちは彼らをそう呼ぶようになった)は、捕虜を殴り殺すか銃剣で刺し殺した。そうでない場合、日本人将校がちょうど通りかかれば、光り輝く軍刀を捕虜に向かって振り回し、野蛮な叫び声をあげ、哀れな捕虜の首を即座に斬り落とすのだった。 往々にして、アメリカ人捕虜は道路わきの地面に既に横たわっており、日本人将校は卑劣な目的を果たすために、何度か切り付けなければならなかった。一帯は血の海となった。 これらの残虐行為を目の当たりにした私は、何とか列に戻る力を取り戻そうとしたのだが、弱りきった体と疲労で道脇の溝に崩れ落ち、眩暈がするような絶望的な混乱の中で、生きる意志を失いかけていた。 ならず者班の一人がすかさず私を見つけ、私を片付けるために突進してきた。その一人が私に向かってきたのを見た私は、片方の膝を立てて起き上がり、今にも処刑されそうになった。この兵士は、簡単に彼の銃剣を私の心臓にあてがい、そのまま前向きに彼の体重を加え、銃剣を私の弱った心臓に突き刺せたはずだ。それで一巻の終わりだったろう。 それをする代わりに、彼は、「これは俺の獲物だ」と言わんばかりに、儀礼的な日本語の掛け声を発した。彼は4-5メートル後戻りして飛び上がったかと思うと、両足を開いて立ち、着剣したライフルを攻撃姿勢に持ち上げ、疲れ果てた私の体を目がけて突進してきた。これは間違いなく、彼が軍の訓練で教えられたやり方と作法だったのであろう。彼は、過去にその技術を何度も練習していたようで、白兵戦で相手を殺すために何を為すべきか正確に知っていた。 彼が、銃剣を着けたライフルを構えて突進して来たとき、私は突然、どこからとも知れない力が突然体を駆け巡るのを、感じた。 その瞬間、「まだ死なないぞ」と 私は決心した。 彼のライフルが私の体に触ったとき、私は体をくねらせ、転がり、右手で銃剣を払い落とした。瞬時に私は自分が切り傷を負ったことを知り、生暖かい血が指から腕に流れていくのを感じた。 自分の無能さに腹を立てたこの日本兵は、前のように後戻りして、練習どおりに構えると、もう一度叫びながら私に向かってきた。仰向けになって横たわっていた私は、彼の銃剣が私にあたる寸前にそれを蹴り返した。銃剣は私の左かかとの上を貫き、ライフルで打ち据えられたその周辺はひどい傷となった。切られた箇所から、再び生暖かい血が下肢を伝わって流れるのを感じた。 怒り心頭に発し、それまで私の死に物狂いの抵抗をスポーツ観戦のように愉快に見物していた仲間の日本兵 たちの前で、完全に面目を失いそうになった彼は、殺されまいと執拗に抵抗するアメリカ人捕虜を早く片付けてしまおうと、益々むきになった。 私にとって幸運だったのは、その時、三つ星をつけた日本人監視兵が自転車に乗ってその場にやってきて、列の周辺にいた日本兵たちに大声で命令し始めたことだった。彼は「この列は遅すぎる。早く歩かせろ。」と言っているようだった。 その瞬間私は、すばやくその混乱状況を利用して立ち上がり、行進を続ける捕虜の列に紛れ込んだ。二人の捕虜が私を両側から掴み、彼ら自身も弱っているのに、私にバランスを取らせ歩けるように支えてくれた。 ほどなくまた力が湧き上がり、私は、ゆっくりとではあるが列の前まで戻り、怒り狂ったあの殺し屋から隠れることができたのだった。 私がそこそこの体力を回復するのにそれほど時間はかからず、仲間の捕虜がくれた汚いぼろの布切れで傷を覆い、何とか苦しい行進のペースにその日一日ついて行くことができた。夜はまた野宿だったが、やはり排泄場所も食事も水も与えられなかった。 言うまでも無いことだが、午後に私を殺そうとした敵兵が、新しい見張りへ兵の集団と交代したとき、私は心底ほっとした。 その夜、疲労困憊した私たちにとって、やっとありつけた休憩が有難かった。しかし、翌日は早朝から整列させられ、生の米をスプーン一杯与えられた私たちは、また始まる苦痛の一日を、北に向けて行進させられた。 悲しいことに、あの恐ろしい体験から2日もしないうち、私を掴んで行進の列に戻してくれた二人の米兵が、今度は自分たちが極度の疲れから列の後方に倒れ、別の日本人見張り班によって残虐に殺されたことを、知った。 混乱状態の中で私は、自分の命を救ってくれたこの勇敢な二人の名前を聞いていなかった。 後になって私は、彼らがニューメキシコ州出身の兄弟で、私たちがルソン島の各持ち場からバターン半島に退却し、その地に防御基地を設置した際、英雄的な援護を提供した第200沿岸砲兵隊(対空防衛)に所属していたことを、知った。
私にとって、彼らは英雄として生き、英雄として死んだのであり、私は決してそのことを忘れないだろう。
(マーフィー氏はその後、秋田県の花輪に送られ、終戦まで三菱尾去沢銅山で強制労働に就かされました。詳細 )
ジェームス・マーフィー氏とのインタビュー 本の謝辞の中に次のように書かれましたね。
妻のナンシーには、私たちの子孫やその後の世代のために、私が自分の物語をまとめられるよう、私を励まし、彼女自身の執筆体験を使って助けてくれたことに、特別の感謝を捧げます。彼女の粘り強さと、来る日も来る日も私の恐ろしい捕虜体験を聞いてくれる忍耐がなければ、私が耐えた体験についての記録は完成しなかったでしょう。 現代の日本人の一人として、貴方が(奥様もそうだったと信じます)、三人の息子さんが成長なさる過程で、私たちに悪感情を植えつけない努力をなさったことに、とても感激しました。 いつ頃からお子さんたちに捕虜体験をお話しするようになったのですか。 帰還して故郷に戻った時に私が取り組まなければならなかった最大の問題は、身体の回復をはかることと、私たち捕虜を残虐に扱った者たちに対する私の感情をどうするか、ということでした。私は、自分が他人への憎しみを抱いて生きていけないことを知っていましたし、私の中には敵を許すというキリス教の教えがそれ以前から植えつけられていました。私は、身体的にも感情的にも傷を癒し、前向きに生きていかなければならないことを、知っていたのです。私の仲間の捕虜と私を苦しめた者たちを許すことは、難しいことでした。それらの個人に対する憎しみは、消えませんでした。周りの人々からの思いやりと祈りを通して、私は許し忘れることができました。過去を振り返って生きるのではなく、喜びに満ちた将来の人生に向けて進みたかったのです。 そのような思想を確立させ、私は人生を前向きに歩き始めましたが、過去を忘れるのはやはり難しかったのです。時おり、過去の出来事を他人に語ることはできましたが、決して心地よくできることではありませんでした。第一に、私は過去の不愉快な出来事を思い出したくなかったし、私が体験した捕虜体験を的確に表現できる英語の言葉があるとは思えなかったのです。もしそのような言葉があったとしても、誰も私が表現しようとすることを信じなかったでしょう。同じような体験をした元捕虜と話すときだけ、私は満足して出来事を語ることができました。彼らなら理解できることを知っていたからです。
結婚して子供ができてからは、私はその時々の暮らしに関連しそうなことに限って、私の体験を語りました。妻は私の体験について知っていましたが、私は生々しい詳細まで教えることに意味はないと思っていました。その後子供たちが成長する間、、自分が捕虜であったことを隠しはしませんでしたが、生々しい詳細については一切語りませんでした。私は、枢軸国の独裁的指導者たちが、征服した人々に非人道的な犯罪を為したことを知っていましたが、その国の現代の国民を、彼らの指導者の行為に関して責めることはできないことも、知っていました。
ナンシー夫人とマーフィー氏 (2008年のADBC大会) 息子さん達に、捕虜として味わった苦痛の体験をお話しなさるのは、難しかったですか。彼らの反応はどうでしたか。 そうですね。父親にそんな酷いことが起こっていたなんて、彼らには知って欲しくなかったので、難しかったです。 全体的なことを教えて、彼らが聞く個別の質問に淡々と答えるようにして、彼らのショックを小さくしようとしました。 彼らの反応も、私が観察した限りでは淡々としたものでした。もちろん、彼らは私が生還したことを喜んでくれましたし、この体験が私たち家族を強く結びつけていることに感謝していました。そのことは、私たちのキャンプや旅行や家族の集まり、それぞれの体験を語り合い、共に過ごすことに、貢献したと思います。私が見る限り、彼らはいかなる人種に対しても悪感情は抱いていません。
バターン記念行進に参加したケネス
・マーフィー氏と両親 *マーフィー氏の三男ブライアンさんのエッセイから 我が家で私たちが成長する間、父の捕虜体験は、全くと言っていいほど語られることはありませんでした。無言が時には多くを教えるのだということを、当時は理解していませんでした。彼の置かれた状況、どんな歴史の中にいたのか、そして肉体的には無事に生還したことを、私たちは皆知っていました。私たちが知らなかったのは、彼が捕虜として過ごした年月がどれほど酷いものであったのか、ということでした。彼の払った犠牲の全貌をやっと理解するようになったのは、私たちがだいぶ大人になってからのことでした。振り返ってみますと、彼が黙っていてくれたことは、私と兄たちにとって大変よい結果をもたらしました。彼は本当に、意識して黙っていたのです。 彼が自分が受けた非人道的な扱いについて黙っていたからこそ、私たちは楽観主義者で人間というものに希望を持ち続けることができたからです。息子たちに決して異なる人種の人々に悪感情をもたせない、という父の決意は、彼の人格をよく物語っていると思います。息子たちに、そして次世代の若者たちに、寛容を教えるところに、彼の本当の性格が現れています。自分自身は、感受性の強い青年時代に全く正反対の扱いを受けたにも拘らず、父の寛容を学ぼうとする姿勢は、これからもずっと彼の息子たちに受け継がれていくでしょう。
あなたの花輪への旅を思うとき、(よくそれを思っているんですよ) そしてあなたが私のためにしてくれたこと、あなたの旅が私にとってどれほど意味があったかを考えてみますと、それは私と日本の人々との関係において、最大の癒しの要素の一つだったと思います。私は機会あるごとにこのことを人に話すのですが、今でも、あなたと日本の人々に対する感情が与える衝撃で胸がいっぱいになります。日本の方たちへのメッセージは、以前にあなたのウエブサイトに載せて戴いたとおりです。 有難うございました。 (マーフィー氏の日本人へのメッセージと徳留絹枝の花輪訪問に関するエッセイは、マーフィー氏の捕虜体験のページの後半にあります。)
ケネス
・マーフィー氏とのインタビュー 日本軍の捕虜だったお父様に起こったことを知ったとき、あなたがお父様に抱いた気持ちは、どんなものでしたか。 父が第二次大戦中捕虜だったことを知ったのは、8歳から10歳の間だったと思います。家の本棚にあった「バターンの英雄」という本を読んだからです。その本の中で、他の大勢の米兵の写真の中に、父の写真があるのを見つけました。当時兄弟と私は、父の捕虜体験の全容を学び理解するには、子供が持つ他の関心事に気を奪われすぎていました。彼が私たちとそれを詳しく話し合うことは、決してありませんでした。その時点では、父が遠い地で戦われた戦争に参加して無事に家に帰ってきた、という漠然とした認識を持つだけで満足し、私たちはみなノーマルなとても幸福な暮らしをしているように見えました。
1970年後半、私が20代半ばになる頃、父は、捕虜が耐えた医学的状況と苦痛に関する詳細な情報を含んだ「The
Japanese Story」という手書きスタイルの小冊子をくれました。私は父の捕虜体験について、さらにいろいろな質問をするようになり、彼はそれらに答えてくれました。 お父様は、あなたが小さかった頃、現代の日本人に悪感情を抱かせないように努められました。お父様はそれに成功したでしょうか。 父は、私たちが現代の日本人に悪感情を抱かないようにすることに、完全に成功しました。彼が味わった苦しみにも拘わらず、彼の許しのメッセージは、親切でやさしい信心深い彼の人となりの証明であるばかりではなく、それは、(それをする理解と勇気があるなら) 私たち自身の人間性について、自分自身にも他の人々にも教えられる価値や教訓を表していると思います。 この本をお父様と書くにあたって、一番大事な目的は何でしたか。 本を書くという最初の考えは、父の個人的な体験談をまとめ、彼の遺産として家族の間で保存するため、ということでした。次に彼は、自分の子孫と彼の体験に興味を持つ歴史家に残すため、戦争中に起こった真実の記録を彼自身の言葉で記録することを、欲していました。最後にそして最も重要なこととして、私は、彼の卓越した物語を、そこに含まれた視点や人生の教訓から恩恵を受けるであろうできるだけ多くの人々と、共有したかったのです。 日本軍の捕虜として父が体験した出来事に関して、さらなる詳細を聞き、私は、大勢の人々がこの物語に感動するに違いないと、信じるようになりました。私は、父の物語には、人生と人間性に関する幾つかの普遍的なテーマが埋め込まれていること、そしてそれが適切に語られるなら、教育と啓蒙のために役立つと信じたのです。 私は、父が、単なる戦争物語以上のものとして読者から感謝されるようなユニークな方法で、彼の物語を語ることを助けられると、信じました。この物語が世代から世代に受け継がれることを悟った私は、父の共著者になる誇りと、その責任の重さの、どちらも感じました。彼の体験の中核であった人間性に関する多くの本質的テーマを、年代や性別や出身地に関係なくどんな読者にもアピールする方法で描きたいという願いに付け加えて、事実的に歴史的に正確を期すことが必要であると、私は理解していました。 第二次大戦で戦った日本兵の子供たちに、何かメッセージはありますか。 私たちの間には、多分、違うことより似通っていることの方が多いのかもしれません。 私たちの父親は、私たちが起こしたのでもなく、参加したのでもない、私たちの国の間の戦争で戦いました。 彼らの家族も、私たちの家族も、戦時中からその後の何年にもわたり、銃後と前線で犠牲を払い苦しみを味わいました。 私たちは悲劇と、絶望、それを生き残った人々の意識の中に一生涯埋め込まれた苦しみと悪夢という戦争の醜い後遺症を、嘆きます。 私たちは、人間の人間に対する非人道性と消すことのできない戦時中の残虐行為に、失望し、恥さえ感じます。 私たちの間には、多分、違うことより似通っていることの方が多いのかもしれません。 私たちは、自分の人生における夢を追及できる国に暮らせる幸運に、祝福されています。 私たちは、偉大な挑戦と困難が存在する複雑な世界に住んでいますが、それらを解決する人間の可能性を、日々垣間見ています。 私たちは、理解するために、思いやるために、許すために、そして平和のために、自分の内面を見つめます。そして私たちは同じことを求めて、外に目をむけ、お互いとこの地球の全ての国と人々を見つめます。 私たちの間には、多分、違うことより似通っていることの方が多いのかもしれません。 有難うございました。貴方の本を日本の人々に紹介できることを名誉に思います。この本には、貴方のお父様への愛と尊敬、そして彼の物語を普遍的なメッセージと共に伝えたい、という貴方の決意があふれていると思います。 私が最後の質問をしたのは、日本で第二次大戦を戦った兵士たちの子供の世代である私たちが、父親たちの体験を次世代に伝えるという努力を怠ってきたのではないか、という気持ちからでした。幸運なことに、今日本では若い人々が、彼らの祖父の世代にインタビュイーし、戦争体験や今の思いを記録しようとしています。80代後半から90代になった多くの戦争体験者がこの動きを歓迎し、時には初めて、残虐行為を犯したつらい思い出も交えて、進んで語ろうとしています。それで、貴方の本が日本の多くの人々にインスピレーションを与えて欲しいと願っています。 第二次大戦で起こった出来事と事実の包括的で正確な記録を、それぞれの世代に伝えていくこと、そしてそれらの事実に向き合うことがどれほどつらくて不愉快であっても、誠実に正直にそして迷うことなく伝えていくことが、必要だと思います。 この方法によってのみ、関わった全ての者と彼らの子孫が、真実が隠されていたり忘れ去られていたら起こるかもしれない間違いや逸脱、あるいは戦争そのものが、将来繰り返されないよう、 過去の出来事から得られる全ての道徳的教訓を学ぶことができるのです。 私たちの本、『兵士が生きなければならない時』 が、今後多くの世代に共有されることが、私たちの願いです。
"…when
men must live"
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