彼は、捕虜生活を描いた画家として最も有名です。
スティール氏が絵を描き始めたのは、ビリビッド刑務所に収容されていた時でしたが、2枚を除く全ての絵は終戦までに失われてしまいました。しかし、開放されて帰還するとすぐ、彼はそれらの絵を再現し始めました。それらはやがて、日本軍下における捕虜体験を描いた最も包括的なそして最も説得力のある視覚資料の一つとなったのでした。
オリジナルのスケッチは無くなってしまったそうですね。どうしてですか。 戦時中に私が書いたスケッチは、フィリピンから日本に向かう捕虜輸送船で失われました。それらの絵を友人の将校に託しておいたのですが、彼が乗せられた船が米軍によって沈められてしまったのです。 捕虜の貴方が絵を描くということには、どんな意味があったのでしょう。 絵を描くことは、苦痛を忘れさせてくれるという意味でとても役立ちました。芸術は、偉大なセラピーです。 あなた自身を、そして捕虜生活を、絵という形で表現することが、日本人に対して持たれていたであろう悪感情を乗り越えることに役立ちましたか。 かつて私は、自分達を酷く扱った日本人看守を憎んでいました。でも、今はそれらの感情を乗り越え、全てを許しています。モンタナ州立大学で美術を教えていた時、日本人の生徒が何人かいました。彼らは、私にとってとても助けになりましたし、今は何人かの日本人の友人がいます。彼らは私の家にも来てくれますし一緒に楽しく過ごしています。 あなたの絵には、現代の日本人にも理解できるメッセージがあると思われますか。
私の絵はとても強烈ですが真実を描いています。私は、それらがあらゆる意味で残酷な戦争というものの産物であることを、日本の人々にわかって欲しいと思います。戦争は地獄です。なぜそれが起こってしまうのか、理解するのは難しいですね。
"水汲みライン”
オドネル収容所には、一本の給水栓しかなかった。歩ける捕虜が、病気の仲間のために水を運んだ。元気な兵士は、水筒を紐でつないだり、竹の節を切り開いて水を運ぶ容器とした。兵士たちは、水を汲むために一日中そして夜になるまで並んだ。多くの者が、飲み水を得る前に倒れて死んだ。
![]()
"落伍者"
行進についていけなくなった者は日本兵に殺される。 仲間の捕虜はとても介入できない。
|