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南山高等学校でのスピーチ おはようございます。 先ず、南山中学校・高等学校、特に熊川神父さまと「さくらの会」の皆さんに、お礼を申し上げたいと思います。それから、徳留絹枝さんにも感謝します。私と緊密に連絡を取って働いてくれた彼女がいなかったら、今回のことは起こっていなかったでしょう。南山校に私が少年を捜していることを知らせ、今回のイベントを可能にする記事を書いて下さった「中日新聞」と「朝日新聞」にも感謝します。今日参加して下さった、米国領事館のジョナス・ステユワート主席領事に、感謝します。そして、ここに私を招いて下さった全ての方々に、お礼を申し上げます。私が出合った南山校の全ての方々のご親切に、私は圧倒されるほど感激しております。 さて、私は祖父の人生について話すためにここにおります。私は、あなた方の歴史を知ることで、私自身の歴史についてもさらに学ぶことができると信じています。そして私の歴史を知ることで、皆さんも、皆さん自身の歴史をさらに学ぶことができると思います。 私があなた方の年代に近い18歳の高校3年生だった時、ある先生が戦争体験者にインタビューする宿題を出しました。私は自分の祖父にインタビューし、彼の体験の多くを知ることができました。彼はそれから僅か数年後に亡くなりましたので、私にとってこれはとても大切な出来事で、彼の人生についてそれ以前は知らなかった多くのことを学ぶことができました。
今日皆さんの前に立っている私は、27歳7ヶ月27日になります。私の祖父が今の私の歳の時、彼はフィリピンにいて、数週間後には日本軍に降伏するアメリカ軍の一員として戦っていました。ですからこれから数年の間、私の人生の毎日は、祖父が過酷な体験をした時と同じ年齢ということになりますので、私は一日一日毎に、彼がその日どこにいたのかを考えていくでしょう。毎日どんな問題に突き当たろうと、彼が同じ歳で突き当たったことに比べれば取るに足らないということを、私は自分に言い聞かせなければならないのです。 若い頃農場で働いていた祖父は1941年に陸軍航空隊に志願しましたが、何処に連れて行かれるかも分からずアメリカを後にしました。彼は、日米開戦のたった2週間前にフィリピンに到着し、1942年4月、米軍が降伏するまでそこで戦いました。数ヶ月の戦いと爆撃の後、バターン半島の兵士達の補給は底を尽き、降伏を余儀なくされたのです。1942年に入ってからは食糧も不足し、兵士達は、捕まえたイグアナや騎馬隊の馬まで食べ始めていました。 兵士達は、後に「バターン死の行進」と呼ばれようになる、灼熱の炎天下を食糧も水も与えられない何十マイルもの行進を歩かされました。祖父は、知り合いの兵士達が道端の水溜りの水を飲もうとしただけで殺されるのを、目撃しました。 数日の行進の後、兵士達は貨車に乗せられましたが、余りにもきつく押し込まれたので、熱病・飢え・負傷で死んだ者は床に倒れず、彼の死体は兵士達の頭上を運ばれドアから落とされました。 彼はその後の3年間を、疾病が蔓延し食糧もろくに与えられない捕虜収容所で過ごしました。彼は背丈は私くらいでしたが、体重は、戦争が終わる頃には37キロにまで減ってしまいました。1944年7月、彼は日本への船に乗せられました。船倉に押し込まれ、台風や真夏の暑さの中、航海は3ヶ月近く続きました。捕虜達は、1944年9月に四日市に着き、石原産業の工場で働かされました。この写真は、彼が日本に着いたときに撮られた写真です。 その年の暮れ、大きな地震があって足を怪我した彼は、四日市収容所の中にあった病棟に入れられました。でもその前は、彼は工場で働いていました。配給の食糧は相変わらず僅かで、体重は益々減っていきましたが、工場で働いていた時、彼はたぶん今のあなた達の年頃の少年と出合ったのです。祖父は、その少年が重いものを持ち上げなければならない重労働を課せられているのを、見ました。たぶん可哀想だと思ったのでしょう、彼はその少年の重労働を手伝ってやるようになりました。そのお返しとして、少年は彼のわずかばかりの食事を祖父に分け与えてくれるようになったのです。当時は、日本人も食糧不足でした。また敵国の捕虜を助けているのが見つかれば、彼は厳しく罰せられたでしょうが、それでもこの少年はそれをしたのです。 戦争が終わった時、祖父がいた四日市捕虜収容所の上空にアメリカの飛行機が飛来して、大量の食糧を投下していきました。それは祖父が長い年月の末に口にした、初めての食事らしい食事でした。日本を去る時、何も残してはならない、アメリカ軍が必要としているので、捕虜は全ての物資を持ち帰るようにと指示されました。しかし祖父は、親切に報いるために、運べる限りの食糧をその少年と彼の家族に届けたのです。そのお返しに、少年は今ここに皆さんが見ている写真を祖父にくれたのです。そしてそれが私の調査の始まりになりました。祖父は、その少年の名前を知ることはありませんでした。 戦地を去ろうとする祖父は、この少年から思いやりを受けたことで、無垢な純粋さを見ることができました。そのことによって彼は、日米両国の間にあった困難さは決して継続するものではなく、次世代にまで引き継がれるものではない、と理解することができました。彼は、皆さんの年代のこの少年の純粋さを、理解したのです。この写真は、帰国した祖父の大切な宝物になりました。彼は戦争が終わった後の数ヶ月を病院で過ごし、体重を取り戻そうとしました。祖父は、少年からの贈り物をいつも思い出していました。私は、少年の贈り物は、聖書の中にある二枚のコインを差し出した未亡人の寓話のように、とても意義深いものだったと思います。彼は与え得る全てのものを与えたのですから。 私は昨年、祖父のことをもっと知るために、そしてこの少年が示した思いやりを称えるために、彼を探し始めました。この少年、彼が祖父と育んだ関係、そして思いやりといったものを心に刻みたいと思ってここにやってきた私は、まだ彼を見つけていませんが、私は、亡くなった祖父を心に刻むためにも、ここに来たのです。彼らは私達と共にここにはいませんが、それでも私達は、彼らの行為が象徴するものを心に刻むことがができます。 ここにいる「さくらの会」のメンバーの一人の生徒さんが、“なぜこの少年は、敵国の人物に思いやりを持つことができたのだろう”と質問しました。私は、私達みんなに、人間として思いやりを持つ共感が備わっていると、信じます。私は、この少年の中にあった、困っている者に対する思いやりは、ここにいる貴方がた全員の中にもあると信じます。同じ思いやりが皆さんの中にあること、ここに大きな意味を見つけることができると思います。
アウシュビッツ収容所にいたホロコースト生還者の一人に、ヴィクター・フランケルという人がいました。フランケルは、私達が生きていく上での自由は、責任とバランスがとれていなければならない、と言いました。彼は、私達が人生で享受している自由は、責任が伴わなければ、独断的なものになると言ったのです。私は皆さんに、このことを考えて頂きたいと思います。皆さんが生きて行くなかで決断を迫られた時、私達両国民が今、共に享受している自由の意味を、理解して欲しいのです。そして私の祖父が与えられた挑戦に対して責任を持ち、この少年が思いやりを示せる機会を与えられた時にそれを選んだ、という物語を思い出しながら、自由と責任をバランスさせるということを考えて下さい。
*写真提供:南山学園 |