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ボブ・ブラウンの思い出 シェリー・ジンブラー
私がボブ・ブラウンに初めて会ったのは、2001年にワシントンで開かれた奉天捕虜収容所捕虜の戦友会(リユニオン)でした。それは、あまりよい出会いとは言えませでした。彼とはほんの僅か言葉を交わしただけでした。私の妻のスーザンの大叔父エイブ・ガーフィンケルのことを何か知りませんか、とボブに聞いたのです。私は、彼が将校で1944年の冬に奉天に移送されたことを、話しました。ボブは私の顔を見ると、「将校は、1945年の5月まで来なかった」と言い切りました。私は愚かにも、上級将校が1944年の11月に満州に移送されたことを伝える1945年2月の新聞を持っていると、彼に宣言したのです。彼は「新聞が何と書いていようが知ったことじゃない。それは間違っている」と繰り返しました。これがボブとの最初の出会いの全てでした。結果的には、ボブは正しかったのです。でも私はボブのそばを離れて、他の元奉天捕虜(アメリカの英雄たち)と語り始めました。妻とこの会に参加した後も、彼女の大叔父に関する情報は全く得られませんでした。
2004年の5月、妻と私は、全米元日本軍捕虜の会(ADBC)の総会に、初めて出席しました。いつものようにボブは、彼の捕虜体験を語るスクラップブックを持参して、会場に来ていました。それからの5日間、私たちは数多くの元捕虜と語り合い、ボブとも何度も話しました。2004年の9月、モンタナ州で開かれた奉天捕虜のリユニオンに出席し、翌2005年のリユニオンを私たちの住むニューヨーク州キングストンで開催させてもらえるという決定に、深く感激しました。その会にはボブも参加し、古い私たちの町を楽しんでくれました。彼が語った奉天での体験は、私たちの町の新聞の第一面に掲載されました。近くにあるウエスト・ポイント陸軍士官学校からも招待を受け、1965年度の卒業生を称える会に出席しました。
シェリーとスクラップブックを見せるボブ 2006年のリユニオンは、ワシントン州のパスコでしたが、ボブはそこで、3年半の栄養失調と死の行進で受けた傷の後遺症が悪化し、入院することになってしまいました。他の多くの元捕虜と同様、彼は負傷兵に授けられるパープルハート勲章を受けていませんでした。彼の負傷は、降服の後に起こったものだったからです。私とボブはそれから一年近く、アメリカが誇る全ての負傷兵と同様に、彼にもパープルハートを受ける資格があることを話し合いました。ボブと9人の元奉天捕虜は2007年5月、瀋陽(旧奉天)を訪れました。私も同行し、そこでパープルハート勲章についてまた話し合いました。2007年8月、彼はバターン死の行進で受けた傷により、パープルハートを授与されました。日本兵からライフルの台尻で首と肩を殴打された傷の痛みは、その後65年にわたって彼を苦しめてきました。この8月、制服に身を包んだボブは、ビール空軍基地で誇らしげに勲章を受けたのです。
彼は、日本語を覚えて話せるようになったことを、誇りにしていました。大気医師との友情。この日本軍の医師は、1945年春にボブが盲腸の手術をした後、家族に手紙を出すことを許可しました。戦後大気医師を日本に訪ねたボブは、2005年に再び彼の家族を訪ねました。
彼は、この国を誇りに思っていました。彼は粘り強くあるための二つのルールについて語りました。「ルール1:もう一歩を踏み出すこと。 ルール2:もうこれ以上進めないと思った時は、ルール1に戻り、もう一歩を踏み出すこと」
ボブはアメリカの英雄でした。2007年9月、キングストンで彼を見送ったとき、それが彼を見る最後になるとは夢にも思いませんでした。
2008年5月のADBC総会で、ボブが肺がんの診断を受けたことを知りました。帰宅して彼に電話しましたが、それはその後何度も私たちが交わした電話での会話の始まりでした。これまで4回癌から生還した私は、自分たちの運命を茶化しあったものです。キモセラピーのことそして痛みのことを、話し合いました。最後にボブと話したのは9月末、ミズーリ州ハンニバルで開かれる奉天生還者リユニオンに出発する日でした。彼が、バターンでの戦いでの功労で、ブロンズスター勲章を授与されたのはその週でした。ボブは、奉天収容所での働きを認められた3通の表彰状(日本軍から2通、米軍から1通)も、大変誇りにしていました。
本のタイトルは、「Undaunted Valor The Men of Mukden... In Their Own Words (不屈の勇気:奉天の男たち…彼らの言葉で綴る)」 です。 その本を書くために私は10年を費やしたのですが、その間、数多くの奉天捕虜収容所からの生還者にインタビューしました。本は彼らの物語ですが、語ってくれたのはボブ・ブラウンです。彼は、ストーリーの展開を繋ぐ接着剤でした。一人一人の男が物語に大きく貢献しましたが、ボブは彼ら全員の影の声でした。
彼らのフィリピン防衛戦は、戦争の流れを変えました。バターンとコレヒドールは、ターニングポイントでした。彼らの戦いが、犠牲と勇気が、日本軍のオーストラリアへの侵攻を遅らせ、米軍の南方の島々への補給と勝利への道を、可能にしたのです。悲しいことに、バターンとコレヒドールの将兵は見捨てられましたが、彼らの運命は報われました。これらの男たちは敗北したのではなく、その英雄的防衛戦が、太平洋での勝利のスタートになったのです。彼らこそ、終わりの始まりだったのです。 米空軍最上級曹長ロバート・A.ブラウンは逝きましたが、私たちは、決して彼を忘れないでしょう。ローズマリー夫人とブラウン家の人々に、心からのお悔やみを申し上げます。彼らに神の加護がありますように。
* 新聞 「Appeal Democrat」に出た死亡記事
Robert
A. Brown
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