善通寺捕虜収容所写真集  
 

小林晧志氏の善通寺捕虜収容所に関するエッセイを掲載したすぐ後、善通寺収容所で経理を担当していた吉田茂陸軍主計中尉のご子息吉田文夫氏から、戦後父親が保管していたという写真と資料を送っていただきました。

ここに紹介するのはその一部ですが、Center for Research: Allied POWS Under the Japanese, http://www.mansell.com/pow-index.html のロジャー・マンセル氏による解説を加えてあります。
 

(写真:吉田中尉が保管していた善通寺捕虜収容所情報綴)


 

 

収容所の日本人が、煙草・みかん1個と他の食糧が入ったパッケージを、捕虜に配っているところ。これは完全にプロパガンダのためだった。撮影が終わると、捕虜は宿舎の反対側に送られ、それらのものを取り上げられたのだ。この事件は、何冊もの回想録や著書ではっきりと記録されている。1942年1月16日、水原少将が捕虜に向かって演説をした直後のことである。彼は、収容所の責任者だったようである。


 


         
                                
                                        点呼                                                                 パン焼き
 
                

 

捕虜は、山肌を耕して稲作用の段々畑にする作業を与えられた。捕虜はこの山をOsa Yama と記憶しているが、この作業は1944年後半まで続いた。作業中、見張りが捕虜を乱暴に扱うことはほとんどなかった。というのは、彼らは昼寝をしており、点検に登ってくる監視が見えると、捕虜が見張りを起こす役目をしていたからだ。



朝の体操
 

           

グアムで捕虜となった看護婦たち            ジョン&ルビー・ヘルマーズ
 5人のうちの4人                      と彼らの新生児シャーレーン
 
              

             吉田中尉が手書きで記録した看護婦氏名と給与
  
 



交換船 「Gripsholm」 で帰国した看護婦から吉田夫人への礼状

 

                           

グアムの総統代理だったジョージ・ジョンソン・マクミリン海軍大佐とデユーイ・ダニエルソン軍曹は、1942年8月24日、善通寺捕虜収容所から台湾の花蓮港捕虜収容所に向け出発した。



マクミリン大佐の出発(右側は吉田中尉)


追記

これらの写真をロジャー・マンセル氏に送った数日後、以下の手紙を受け取りました。

これらの写真をあなたがロジャーに送り、彼がそれを私に転送してくれたことに、心から感謝します。

私の名前はシャーレーン・スザンナ・ヘルマーズ・グロスといいます。写真に写っているのは私の父ジョンと母ルビーです。父はグアムに駐屯しており、母は家族として同行していた民間人でした。母は私を身篭り、民間人の最後のグループが帰国する時、出産予定日が近づきすぎていて、彼らと一緒に島を離れることができなかったのです。私は1941年11月21日に生まれ、グアムが12月10日に日本軍によって占領されたとき、生後わずか17日でした。島に残されたアメリカ人女性は、5人の看護婦と私の母そして私だけだったのです。 

看護婦は、私たちが善通寺捕虜収容所に送られた後、母が私を世話するのを助けてくれました。母を助けてくれた人々、そしておそらくそのような状態の中で私が無事育つことを可能にしてくれた人々の顔を、こうして見ることができて、本当に嬉しく思います。


吉田文夫氏も、写真がご本人に届いたことを大変喜ばれました。66年の歳月を経てこのような対話が実現したことを、嬉しく思います。
                                                     (徳留絹枝)



善通寺捕虜収容所もお読みください。


追記 2

善通寺に関する二つの記事を掲載した後、ニュージーランドのケヴィン・メンジス氏から、以下のようなメールを受け取りました。メンジス氏の父親は、太平洋戦争中ほとんどの期間を、善通寺捕虜収容所で過ごしました。善通寺で1943年、1944年、1945年に10人の捕虜が死んでいる事実を考慮しますと、メンジス氏の意見は紹介する価値があると思いますので、掲載します。

私は、善通寺捕虜収容所が「プロパガンダ収容所」「模範収容所」と不正確に言及されることを、憂慮しています。その主張は、二つの前提に基づいているように見えます。

     (1)   東条英機が善通寺を訪れた(彼は実際は来ていない)
(2)   赤十字視察員が善通寺を訪れた

東条がこの収容所を訪れたことは一度もありませんでした。そのような計画や事実があったという記録は一切ありません。一時そのような噂が収容所内に流れましたが、噂に終わりました。赤十字は、善通寺収容所だけでなく他の多くの収容所も訪問しています。

私の父は、善通寺にグアムからの捕虜が到着する数時間前にこの収容所に入った最初のグループ(7人のニュージーランド人、1人の英国人、1人のアメリカ人)の中の1人でした。そして父は1945年に解放されるまで、ずっとこの収容所にいたのです。 

日本が緒戦で勝っていた頃は、収容所の状況はその後に酷くなったほど悪くありませんでした。確かに厳しいものではありましたが、残酷ではありませんでした。戦争のはじめの頃捕えられた多くの捕虜がこの収容所を通過して、別の収容所に送られていきました。多くの場合、それらの収容所の状況は当初善通寺よりずっと劣悪だったので、彼らは、「善通寺は他に比べてよい収容所だった」という印象を作り上げていったのです。

この見方は、戦争が進むにつれ善通寺の状況も悪化していったことを考慮に入れていません。

それから、この収容所を通過していった捕虜の多くが将校だったという事実があります。将校は120人の捕虜兵のように、連日の強制労働に駆り出されることはなかったのです。ですから将校は善通寺に関して、父のような一兵卒の捕虜とは違った見方をしていました。

一つの収容所だけが特別に扱われるのは、合点がいきません。

Center for Research: Allied POWS Under the Japanese のロジャー・マンセル氏は、メンジス氏の憂慮に関して以下のように応えています。

東条がこの収容所に一度も来なかったこと、赤十字から派遣されてきたスイス・イタリア人の視察員が、非常に日本をえこひいきしていたことは、確かです。この収容所を「模範収容所」と呼んだのは赤十字で、その名称が現在にいたるまで続いているのです

一般的にそして他と比較して言えば、この収容所での捕虜の扱いと生存状況は、中ぐらいの程度だったと思います。善通寺で何が酷かったかといえば、それは日本軍が赤十字の慰問箱を横取りしたことと、赤十字が送った医療品を全く捕虜に与えなかったことです。日本軍はそれほど連合軍捕虜を憎んでいたのです。日本が降伏したとき、膨大な量の赤十字物資と医療品が、この収容所で発見されました。(それは他の殆どの収容所でも同じでした。) これは、日本が主張するであろういかなる名誉にも、いつも汚点として残ることでしょう。


* 吉田文夫氏は、善通寺捕虜収容所で経理を担当していた父親の吉田茂陸軍主計中尉が残した全ての資料を、善通寺市立図書館に寄付しました。