チック・パーソンズ米海軍中佐と日本人

ピーター・パーソンズ
 

これは、第二次大戦中に、フィリピンのレジスタンス部隊への潜水艦隊による補給作戦を指揮した私の父、米海軍中佐チック・パーソンズの物語です。彼は、マッカーサー将軍の総司令部とゲリラ部隊の橋渡 しの役を務めました。

私はフィリピンで生まれ、日本軍が当時のデューイ通りにあった私たちの家の前を行進しながらマニラの占拠を開始したとき、僅か5歳でした。それは1942年1月初旬のことでした。そのときの光景は、今でも映画の一シーンのように私の目に焼きついています。私 と近所の子供たちは我が家のプールで泳いでいました。日本兵が手を上げ「万歳」と叫んだので、私たちも手を上げ「バンザイ」と彼らに返事しました。

占領軍とのそんな愉快な出会いがあって数分もしないうち、日本軍小隊と一人の将校が、小さな日章旗を前輪のフェンダーの上にひるがえした車に乗って、我が家の 門前にやってきたのです。家族全員が家の前に集まりました。将校が近づいてきて、私の父に同行するようにと命じました。

私の祖母ブランカ・ジェリカは、「チックはパナマの領事で、治外法権で保護されているはずです」と抗議しました。彼女は、我が家のポーチに掲げられていた大きな旗を指差しました。将校は祖母に歩み寄ると、彼女の顔を殴りつけました。彼女はその場に倒れました。私にとっては、それが戦争の始まりでした。それ以前にも空爆はありましたが、それは単なるプレリュードだったのです。私は白日の太陽の下で、ぶるぶる震えながらそこに立ち尽くしていました。

   
ピーター(5歳)

私たちは、父がマニラに置き去りにされた後、彼の海軍の制服や備品を全て処分していました。コレヒドールに向かう最後のPTボートは、彼を乗せずに既に週間前に去っていたのです。それ以来父はスペイン語だけ話し、ルソン船舶積み降ろし会社
Luzon Stevedoring Co.)のマネジャーとして兼ねていたパナマ国名誉領事の肩書きが何らかの役に立ち、さらには米国帰国を可能にすることを期待しました。父は結局 (日本軍から)酷い処遇を受けることになったのですが、スェーデン総領事 Helge Janson 氏の尽力により、奇跡的に帰国が認められたのです。

戦前の父

戦前の父は、仕事を通してフィリピン全土をくまなく旅していました。1920年代初期はLeonard Wood 総督の私設秘書を務めていました。他に、電話会社・煙草会社・材木工場などでも働き、1931年にはルソン船舶積み下ろし会社のマネジャーになりました。この職務を通して、彼は三井や三菱に糖蜜を売る商いを始めました。1932年に米海軍の予備軍に入り、潜水艦部隊に配属されました。

父は、彼の会社の鉱山権により、日本の会社の社長にさえなったのです。戦前の父の最も親しい友人の何人かは、日本人でした。その一人は、 Pacific Mining Co.の波川氏でした。戦前に日本人と多くの仕事をした人物が、日本軍に捕まり、サンチャゴ要塞(政治犯などが日本軍に拷問された牢獄)で憲兵隊から暴力的な取調べを受けることにな るとは、そしてその後は日本軍へのレジスタンスを指揮する人物になるとは、皮肉なことです。父は、日本の占領下で貴重な軍事情報に近づく為、日本の会社で働くことも考えたくらいでした。

多くの日本人が、海軍予備軍内での父の活動を知っていました。(その中には写真家のピート山内が含まれていました。) でも、誰も彼を(日本軍に)引き渡さなかったのです。日本船ウラル丸でフィリピンを去る前夜(1942年の6月5日頃)、父は、日本帝国海軍将校になっていた山内氏の訪問を受けました。二人は一緒にビールを飲み、山内氏は友人の航海の無事を祈りました。

父が社長だった会社は Nihon Kogyo Kabushiki Kaisha と言って、文字通り日本の鉱業会社でした。父がこの会社の社長になった理由は、当時外国会社は60%が米国人かフィリピン人の所有でなければならず、ルソン船舶積み下ろし会社が必要なアレンジをしたためでした。

マッカーサーとゲリラと共に

父がスェーデンの交換船「Gripsholm」でニューヨークに着いたとき、彼はFBIによって監禁され、日本軍に開放されたことについて尋問を受けました。彼らは、日本の会社社長だった父に、外交官としての特権や権利はないと感じたのです。端的に言えば、彼らは父を日本のスパイではないかと疑ったのでした。海軍の諜報部と国務省の友人が助けにきてくれたのですが、父は、自由の身で上陸させてもらえる前に「君たちは日本の憲兵隊と同じ位荒っぽいな」と取調官に言ったということです。

父は1942年9月、フィリピンのレジスタンス活動との連携を確立し維持する人物として、ブリスベーンのマッカーサー将軍の総司令部下で働くよう、命じられました。その目的のために父は海軍から20隻の船を”借り受け”、特別任務潜水艦隊を編成しました。マッカーサーのフィリピン大隊の一部である父の小隊は、スパイロンと呼ばれました。マッカーサーは1943年3月、父を「The USS Tambor」ミンダナオ島南部に送り込みました。これは、ゲリラ部隊に補給物資を運び、沿岸監視のラジオ局を島全域に設立する為にその後49回にも及んだ輸送の、始まりでした。最終的に、350,000人のゲリラ兵と200 余のラジオ局が編成されたのです。
 

                 
          チック・パーソンズ とマッカーサー           ゲリラ・リーダーとチック・パーソンズ
    
   ("Secret War in the Pacific" から)               ("Secret War in the Pacific"から)

マニラで日本軍の捕虜だった1942年の頃から、父は彼独自の「マニラ諜報グループ」を組織し始めていました。グループには有名な神父や労働者が加わり、マッカーサーに情報を送っていましたが、1944年、フィリピン人日本軍スパイ Franco Vera Reyes の密告で、彼らの多くが捕らえられました。その後処刑されたそれらの人々の中には、父の義理の母 Blanche Jurika と彼の最も親しかった友人の何人か含まれていました。

:日本軍に処刑されたパーソンズ中佐の義理の母( ピーター の祖母)("Secret War in the Pacific" から)


マッカーサーの有名な”リターン”(1944年10月20日のレイテ上陸)の10日前、父は ”黒猫”と呼ばれたPBY飛行艇でレイテに飛びました。彼の任務は、上陸地域を偵察することと、地元のゲリラとコンタクトを取ること、そして島民に爆撃予定地から避難するよう警告することでした。そしてこれらの全ては、目前に迫った上陸作戦を明かさないまま成されたのです。

父は、マニラ市街戦の最中にマニラに入りました。1945年2月3日にサント・トマス民間人収容所が解放されるやいなや、マッカーサー将軍は 父を、収容者に毎日食糧を空輸する任務の責任者に据えました。

戦禍を受けたマニラ市内を見回るうち、父は、日本軍による虐殺の全容を知りました。彼は、最も親しかった旧友の家族全員が親族や訪問者共々、Vito Cruz 通りの住居で刺殺され焼かれているのを発見しました。同じ日に彼は、Malate Columban 教区の修道女と神父が同様に殺されているのを発見しました。

自らが組織した「マニラ諜報グループ」の運命を父が知るのは、それから一年後、彼らの遺体が見つかってからでした。

戦後:日本人を支援

戦争が終わるやいなや、父はルソン船舶積み降ろし会社の再建にとりかかり、東アジア糖蜜会社の仕事に専念しました。これらの仕事を通じて日本を訪れた彼は、日本の会社の再建をを支援しました。そして三菱・三井、そして協和発酵などの会社に糖蜜を提供しました。父はGHQから、これらの会社のために、事業を展開しフィリピンから物資を輸入してもよい、という許可を得ることができました。協和発酵に限れば、父は、非常に必要とされていた投資資本を提供する役目を果たしたのです。                          Navy Cross勲章を受けるパーソンズ中佐

父は、国会議員の松本”フランク”たきぞう氏とすぐ友人になり、彼とマリー夫人を通して、世界記録を作りながら海外に旅行できない日本人水泳選手の問題を、知ったのです。

父は再びGHQに掛け合って、これらの若者こそ日本の再建に貢献できると、説得しました。これらの競技者の中には、古橋広之進氏(元日本オリンピック委員会会長)と橋爪四郎氏がいました。実際に海外旅行の許可が与えられた彼らは、ロ サンゼルスの水泳選手権に出場し、200mから1500mまでほとんど全ての種目に続々と世界記録を出し始めたのです。


その一方フィリピンにおいて父は、マニラ南郊外のモンテンルパにあった新ビリビッド刑務所に留置された日本人戦犯たちの世話に、尽力します。父は、神保のぶひこ氏、和知鷹二氏、横浜静雄氏などから、日本の家族に支援品や医療品を送ったことへの礼状を受け取りました。

和知中将は、留守宅の家族が路頭に迷うことがないよう、また息子の病の回復のために援助をしたことに対して、父に感謝していました。また、モンテンルパ刑務所を訪問した和知夫人が父に宛てた手紙にも、同様な感謝が綴られていました 。

                                         
                                                                        和知鷹二中将からの感謝状 

1953年、父のゲストとして、数人の日本人水泳選手がマニラにやって来ました。 前年5月の九州臼杵オリンピック前キャンプに参加していた私は、その頃までに彼ら全員と友人になっていました。私は競泳を始めたばかりの少年で、これらのオリンピック参加希望者と一緒にトレーニングするよう招待されていたのでした。

アメリカンスクールのチーム仲間と私は、古橋選手、橋爪選手、飛び込みの森選手そしてコーチの村上氏、短距離選手の鈴木ひろ選手(ヘルシンキでで100メートル銀メダル獲得)と一緒 に、日本人戦犯たちを慰問に行きました。水泳選手は、日本食や戦犯の家族からの手紙を持参してきていたのです。

                  
           ピーターと古橋選手                       橋爪選手、鈴木選手、ピーター

1952年に日本の水泳選手と過ごした短い時間は、私の人生で最も重要な出来事でした。彼らと出会って、生涯にわたる友人となりました。一口で言えば、彼らは私が今日まで続けている水泳とトレーニングの仕方、そして日本人はモンスターではないことを、教えてくれたのです。これらの友人と別れるとき、私は泣きました。その後、父が日本と多くのビジネスをする間、1964年の東京オリンピック、そして父に関するドキュメンタリー「Secret War in the Pacificのために古橋氏にインタビューした時など、私は何度か彼らを再訪することができました。その時、協和発酵の方々は立派な夕食会を開いてくださり、父は真の侍の心を持った人物だったと、褒めてくれました。私は、彼らの父に対する心からの尊敬と愛情を感じました。

日本兵の手紙

私は数年前、父のスクラップブックに収められた数多くの書類の中に日本語で書かれたものが数枚あることに、気付きました。それらは日本に向けて書かれた手紙や葉書でしたが、(戦争末期になり)フィリピンから 発送されるには遅すぎたに違いありません。

父はそれらを、マニラのサンタ・メサにあった旧ルソン船舶積み下ろし会社の造船施設内の日本軍駐屯地で、見つけました。彼は秘書に、これらの書面をスクラップブックに入れておくよう、指示していたのです。

地元の歴史家 Rico and Lydia Jose 氏が助けてくれて、これらの手紙はマニラ 市街戦の直前に家族に向けて書かれたものだと、教えてくれました。私はマニラの日本大使館の職員と話してみました。でも大使館は、私が手紙の受取人を探すのを手伝うことには、全く何の関心も示しませんでした。

1945年のマニラで、その中で命を落とすことになる激しい戦闘にまさに加わろうとしている若い兵士の、今は聞くことができない声に耳を傾けて下さい。

負傷して以来、怖がりになりました。でもよい体験でした。弾丸の音が聞こえて煙の臭いがしてくると、どこにいてもすぐ伏せる(隠れる)ようになりました。臆病者に聞こえると思いますが、それが戦場にいる誰もが感じる本当の気持ちです。
                                      
                                                 ― 辻清 より 辻静江さま

その後、「旧日本軍人の遺留品:元の持ち主を探しています "Let War Memorabilia Come Home"」というウエブサイトを運営している西羽潔さんという日本の方が連絡してくださり、手紙の受取人を探すのを手伝ってくれることになりました。私は、手紙と絵葉書の写真を彼に送りました。受取人が見つかるだろうなどという幻想を、私は全く持っていませんでしたが、ほどなく西羽氏 は、差出人の甥の木戸口信二氏を見つけ出したと、連絡してきたのです。私たちはこの人物に、亡くなった兵士木戸口新氏の書いていた手紙を送りました。
(手紙の写真:
http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/iryuhin/techo.htm )

手紙を送り届けられた私自身の喜びは、山形市に住むご家族の感慨に比べるべくもないでしょう。彼らは、大変心のこもった手紙と日本の贈り物を、私に送ってくれました。こうして一通の手紙は幸運にも届けることができたのですが、残りの手紙はまだ残されたままです。

私の父は、日本人の最も素晴らしい面と最悪の面を見ました。彼の首には、日本兵に切りつけられ瀕死の怪我を負った傷跡さえ、残っていたのです。彼は、忌むべき出来事を直ちに過去のものとし、ビジネスと人生を前向きに追求し、旧交を温め、新しい友人を作りました。父は最終的に、生まれた国のアメリカより日本の方に多くの友人がいたと思います。

人々は私と兄弟に、戦後父がどのようにしてまるで何事も起こらなかったかの如く、前向きに生きることができたのか、とよく聞いたものです。父はとても大きな心を持っていたのだと思います。彼はものごとをあるがままに見ていました―戦争は終結したのです。彼は時をおかず赦し、忘れたのです。そしてとても現実的な人でしたから、とにかく人生を立て直し仕事をする必要性を、見て取ったのです。かつての敵が打ちひしがれているのを見て、父は親切な援助の手を差し伸べました。私は、父が何度もそうするのを見ました。彼はそれを宗教的な命を受けて行ったのではなく、真の人道的かつ寛大な本能からしたのです。戦争に負けた日本人の惨めな姿は、テネシー州で貧しく生まれ育った父の子供時代を、思い出させたのだと思います。

最後に私は、辻清氏のやさしい言葉をもう一度引用して、このエッセイを終わりたいと思います。

一年フィリピンにいて学んだことは、ご飯のたき方、そして水をどれ位足すかということです。水を入れるなんて、知らなかった。ははは。衣服を破損しないように洗濯することも学びました。夜に蚊帳をどう吊るかもね。僕が 誰よりも一番早く吊れるんですよ。
 


チック・パーソンズ海軍中佐の人生は、息子のピーターが10年を費やして制作したドキュメンタリー・フィルム「Secret War in the Pacificに描かれています。詳細は以下のサイトを参照:

 http://www.chickparsons.com/home.htm
 

ピーター・パーソンズ氏は、現在マニラ市街戦に関するドキュメンタリー・フィルムManila 1945: The Forgotten Atrocities製作中です。