ジョン E. オルソン退役米陸軍大佐は1985年,
『オドネル:太平洋のアンダーソンビル』を上梓しました。(注:アンダーソンビルは、南北戦争当時ジョージア州にあった劣悪な捕虜収容所) 以下は、その著書とオルソン大佐への最近のインタビューからの抜粋です。
この調査は、もう43年以上も前に私が自分自身に誓った約束の履行ともいうべきものである。 何を誓ったのかというと、1942年フィリピンのルソン島にあったオドネル捕虜収容所で起こったことに関して、歴史的研究を書くということだった。なぜかというと、日本軍に捕われた米国人とフィリピン人の体験に関しては、これまで多くのことが発表されてきたが、オドネル収容所に関しては、ほとんど語られることがなかったからだ。そこで起こった死と苦しみという点では、最悪の場所であったにも拘らず…。 私がそのように感じたのは、数人の例外を除けば、生存者の中で自分自身がそこに最も長く収容されたていたこと、生きている者の中で、当時誰よりもそこで何が起こっているかを個人的に知る立場にあった、という自覚からであった。
私はこの戦いに、名だたるフィリピンスカウト部隊の一つ、第57歩兵隊の庶務副官として、参加した。私は1942年4月14日、その後「バターン死の行進」として知られる行進を経て、オドネル収容所に到着した。これは、降伏からたった5日後のことであった。私のグループは、行進を最初に終えたアメリカ人たちだった。
私の主な任務は、キング将軍の名前で日本軍収容所長に提出される、毎日の人員報告書を用意することであった。
演説 この茶番劇は何べんも繰り返されたが、その様子を最初に報告したのはクイン大佐であった。「彼は、イギリスとアメリカによる東洋の支配を厳しく非難し、その支配は永久に終わったと主張した。彼は 『今や日本が東アジア全域を支配する時だ』と言った。 彼は、我々全員を殺せなかったのは残念だったが、武士道の精神がそのような行為を禁じているのだと、言った。しかし我々は、いかなる命令にもわずかでも背いた場合は、即処刑となるとことを、 保障されたのだった。
ミラー大佐は所持品強奪の後、日本人所長が箱の台に登って、邪悪な目つきで我々をじろりと見渡したことを記憶している。「彼は、私がそれまで見た中で一番醜い人間だった。彼は”憎しみ”のエッセンスとも言える言葉を吐いた」ミラーは続けて言う。「聞いている者たちは疲れ果てており、皆が聞き取れたのは”最後の一言”だけだった。それは、彼らが捕虜ではなく捕われ者であること、そしてそのように扱われること、そして彼らは劣等民族であり、日本は彼らと100年でも”戦って、戦って、戦
い抜いてこの戦争に勝つ”ということだった。」
アメリカグループの庶務副官としてオルソン大尉が記録した毎日のレポートから
1942年4月26日―収容所長付の通訳が8:30に来て、ハルステッド大佐を尋問。9:00日本軍による点呼整列。午前10:30解散。午前10:45グループ
司令官とキング将軍との会議。頭の上にタオルやハンカチを乗せること、どのような形であれ”v”サインを示すこと、将官による水汲みバケツの独占、を止めるようにとの指令。午後4:00キング将軍、日本軍から命じられた1942年4月27日の人員数点検に関する問題を話し合うため会議を召集。通常の雑役と水汲み作業が命じられる。日本軍、翌朝の集合を考慮して夜の水使用も許可。
現在 将官 下士官
兵卒 民間人 総数 1942年4月27日―起床ラッパ午前6:40。捕虜総数 8533。点検集合午前9時、10:15解散。新生フィリピンにおいて職を得ることを視野に入れ、各捕虜の特殊技能を調査確保するよう各グループに指示。それをアメリカグループ本部に正午まで提出し、日本軍本部には午後1:00まで提出する。11:00にキング将軍が召集して、日本軍 司令本部からの命令に従ってなされる組織再編制に関する会議。9人の捕虜が疫病で死亡。15人の将官が日本軍司令本部に出頭を命じられる。組織再編成は、 職業内容に沿って行われる。
1942年5月5日―現在捕虜総数 8,636。通常の作業。将軍と大佐のターラックへの移動を確認する日本軍収容所長からの手紙が到着。陸軍航空隊員103人の作業班が、収容所に帰還。21人が死亡。病院が僅かの薬品を受領。少量の肉が初めて配給される。二匹の小牛であった。30人の航空隊員が病で収容される。彼らを補充するために、30人がバガクに送られる。
1942年5月8日―現在総数 7,505。通常の作業。大佐と将軍たちの移動の計画完了。今日は24人が死亡。通算死亡者数 238。コレヒドールが陥落したという正式な連絡あり。
1942年5月11日―現在 捕虜総数 7,344。通常の作業。ポンプが一つ故障して、水不足の恐れあり。 200人の運転手班が収容所外での作業に出発。医務将校(ルース少佐)が、ターラックに避難。報告された死者数は、これまでの最多数で32。 1942年5月15日―通常の作業。現在捕虜総数 6,523。小麦粉の問題が続く。日本人の医務将校が病院を検査。彼は、アメリカ人捕虜は雨季が始まる前に神戸に送られる、と言った。 1942年5月19日―通常の作業。日本軍司令本部より、もうすぐ移動がある旨の連絡。 1942年5月30日―オルソン大尉デング熱により発熱。 大多数の捕虜が6月4日、カバナツアン収容所に移った後も、オルソン大尉は7月5日までオドネル収容所に残った。その期間のことを、彼は以下のようにまとめている。
第2期とも呼ぶべき一ヶ月足らずの間に、米兵捕虜の総数は1,008人(将官90人、下士官271人、兵卒637人、民間人10人)から、718人(将官89人、
下士官199人、兵卒441人、民間人7人)まで減少した。すなわち死者合計は227人(捕虜総数の22.5%)であり、平均すると、毎日7.3人が死んだことになる。
―水、最も大事な不足物資 埋葬班の捕虜たちに与えられたおぞましい仕事は、それに参加した全ての人間に、その後の人生を通して決して逃れることのできない悪夢のような記憶を、残した。彼らが体験したことを正確に伝えることができるのは、その苦難を実際に耐えた者のみである。一人の死体を運ぶのに最低でも4人が必要とされ、当時埋葬された死体は 毎日25体から50体であったから、死体を運ぶ作業は、かなり多くの人手を要した。その他に、墓穴を掘る他の作業班も必要であった。そのため、何百人もの捕虜が少なくとも一度は、この嫌悪すべき作業に従事した。一人以上の親しい友人が死んだため、一度以上ボランティアした者もいる。正に、死んだ仲間に対する心からの敬意の表明であった。 このおぞましい作業に従事したのは、ボランティアか、毎日必要とされる各作業に捕虜を配置する役目のバラックリーダーから、無差別に指名された者であった。必要人数は、死亡者が増え 、また一つの死体を担ぐ捕虜の体力が弱まるにつれて、増えていった。死体はほとんど骨と皮だけだったにも拘らず、それを担ぐには4人が必要だった。
司令本部から、作業班は死体が積み上げられた死体置き場に向かう緩やかな坂を,重い足取りで歩いた。ほとんどの死体は、衣服を全て剥がれていた。死んでからすぐ死体が発見されなかった遺体は、腐敗が進んでいることもあった。熱帯地域では、それがすぐ起こるのだった。その悪臭は、死体を担ぐ者の鼻腔を満たし、彼らの多くに激しい吐き気を催させた。 筆者はこれまで、埋葬作業に少なくとも一回携わった生還者の何人もに質問してみた。ある者は数回体験していた。彼らの言葉は、その体験がいかに衝撃的なもの であったかを物語っていた。
フィリピン部隊本部中隊のリチャード・M.ゴードン軍曹は、何度かの埋葬作業に携わったが、以下のように回想する。「建物のドアが担架として使われた。死体は、時には15
体から25体も積み上げられていた。(彼が埋葬作業に関った時は十字架は建てられていなかった)ドッグタグがあれば、死体の足の指に付けられた。死体は膨れ上がり、衰弱しきった体は完全な裸体だった。ある雨の日の埋葬作業で、私は水溜りの中の穴に足をとられた。靴が泥の中に埋もれて、足が靴からすぽっと抜けてしまった。靴を泥の中に失いたくなくて、それを取り戻そうと私は思わず足を伸ばしたのだが、その途端
担いでいた死体が私の上に落ちてきた。私の体にぶつかった衝撃で死体の皮膚が破れ、むかつくような臭いの液体が私を覆ったのだった。」 「エピローグ」から 絶えることのない歴史の流れの中で、オドネル収容所が存在した期間は短かったが、それは劇的なものであった。収容地域として9ヶ月にも満たないその期間中に、そこで1,565人のアメリカ人と26,000人以上ものフィリピン人が、 それも全員が人生の最上の年齢で、不名誉で無意味な死を遂げていったのだった。無力の人間を扱うのに自分達の古めかしい行動規範を厳しく用いた敵軍の冷淡さと無能さのため、彼らは、20世紀の大部分の国が従っていた規範によって扱われることはなかった。アメリカ人に起こったことも非難されるべきだが、日本軍が、その戦いをアメリカ帝国主義による”独裁的圧政”から救うためと口実に使ったフィリピン人に対する処置は、全く説明の つかないことであった。 この無意味な殺戮に関った大半の者は、自らの命をもってその責任を取らせられたが、その数は、彼らが破壊した何千人もの命に比べれば、ごく僅かであった。 日本人に対して執念深い憎しみをいつまでも抱くのは、何の役にも立たないことだ。現在の日本国民の大半は、オドネル収容所に関する物語が出版されていたにしてもそれを知るには若すぎるか、まだ生まれていなかったのだ。1942年当時成人していて戦後この悲劇を知った者の多くは、疑いもなく、心から同情し悔やんでいる。彼らが戦後の憲法で戦争の放棄を進んで受け 入れた事実は、この希望に信憑性を与えている。
この本の執筆にとりかかってから、3年以上の年月が過ぎた。私がこの本を通して達成しようとしたのは、オドネル収容所の生存者とそこで死んでいった者の親族や友人たちに、私たちが耐え抜いた捕虜体験の環境と状況を、できるだけ正確に伝えるということであった。 オルソン大佐へのインタビュー ご自分のご経歴について話して頂けますか。 私は1917年11月7日、カンザス州フォート・レベンワースで生まれました。父は、私が生まれる前にフィリピンに2回赴任したことがある将校でした。でも彼は私が10歳のとき、肺炎で死にました。彼の肺は、第一次大戦中ヨーロッパで戦った時にドイツ軍のガスを吸った結果、弱っていたのです。 父の死は、彼の足跡を辿りたいと、私に思わせました。私は1939年6月に、ウエストポイントの陸軍士官学校を卒業しました。最初の赴任地としてフィリピンを選びました。それは2年間の任務で、戦争が始まるちょうど10日前に、帰任の命令を受け取ったのです。それで私は家具や所持品を全て梱包し、米国本土への帰国を待つばかりでした。そして戦争がはじまったのです。私の物語は、全く違った展開となってしまいました。 あなたの著書『オドネル:太平洋のアンダーソンビル』の表紙に、十字架の写真があります。この十字架について説明して頂けますか。 私は、オドネル収容所を離れる最後から2番目のグループのひとりでした。補給担当のアメリカ人将校が私のところに来て、日本人補給担当将校が彼にセメントを一袋与え、収容所で死んだアメリカ人のために神殿を作れと言った、と報告しました。この将校が「どうしましょうか」と聞いたので、私は「我々は神殿は作らない。でも十字架なら作れる。」と言いました。それで彼は去ったのですが、私はカバナツアン収容所に向けて収容所を出たので、その後何が起こったのか知る機会がなかったのです。 私がフィリピンを再び訪れ、オドネル収容所(跡地)まで足を運んだのは、戦後何年も過ぎてからのことでした。そしてサトウキビ畑の中に、彼が建てた十字架を見つけたのです。私はその場で、この十字架をアメリカに持ち帰るべきだと決心しました。 十字架は、オドネル収容所で死んでいった1,565人のアメリカ人を象徴していました。26,000人のフィリピン人も亡くなりましたが、この十字架はアメリカ人のためのものでした。 私は、十字架をアメリカに持ち帰る仕事にとりかかりました。最終的にそれを達成するのに30年もかかりました。それは今、ジョージア州の南北戦争時の捕虜収容所跡地にある「国立捕虜博物館」に展示されています。 30年は長い年月ですね。その十字架をアメリカに持ち帰ることが、あなたにとってなぜそれほど重要だったのですか。何があなたを駆り立てたのでしょう。 オドネル収容所にいた何週間かの間、私は、日本軍に報告する死亡者数のリストを毎日作成しなければなりませんでした。私は、死んでいった者たちに対して、彼らの思い出と歴史を保存する責任がある、と感じたのです。 (インタビュー:徳留絹枝)
オルソン大佐のエッセイ「フィリピン・スカウトの歴史」は、Philippine
Scouts Heritage Societyのウエブサイトで読めます。
http://www.philippine-scouts.org/History/history.html |
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