|
「バターン死の行進」 ― その原因の再考
フィリピンの失陥は、米国史上における米軍最大の敗北であり、バターン死の行進は、降伏した米兵・フィリピン兵に対する最も残虐な戦争犯罪であった。ニューレンベルグ裁判の太平洋戦争版である極東軍事裁判は、日本軍による戦争犯罪の規模と内容に関して概要を確立したが、バターン死の行進を引き起こした全ての原因については、充分に究明しなかった。極東軍事裁判が因果関係に関する全ての要因を見つけられなかったことが、それほど責められるべきではなかった者が処刑され、最も責められるべき者が正義の裁きから逃れる、という状況を生んだのであった。 本稿の目的は、先ず手短にこれら残虐行為の規模と種類を描写した後、死の行進について種々の原因を詳細にわたって検証することである。本稿は、Stanley L. Falkの名著 『Bataan: The March of Death』 などで論じられた既存の分析から引用し、さらに、バターン死の行進の惨劇を引き起こした原因につき、今までに翻訳されていなかったために提供できなかった幾つかの顕著で新しい視点を日本側の資料からも引用する。読者が本稿を読み終えて、死の行進について、どのような文化的・能力的・陰謀的・人格的・政治的要因が渾然一体となって1942年4月9日、バターンにおいて第二次大戦史上最も衝撃的な戦争犯罪の一つを生み出したのか、よりよく理解されることを切望してやまない。 残虐行為の規模 軍事裁判の記録に加えて、これまで何人かの歴史家が残虐行為の規模を究明しようと試み、それなりに成果を上げてきた。私が“試み”と書いたのは、戦争につきものである不透明さと他の要因が、残虐行為の正確な規模を究明することを不可能にしているからである。死の行進は、エドワード・キング将軍が降伏した1942年4月9日から、ほとんど全ての捕虜が死の行進の最終目的地であるオドネル収容所に移動した1942年5月1日頃まで、3週間近くも続いた。 ルソン島にいた米軍とフィリピン軍の大半が、2万から3万人のフィリピン市民と一緒に、バターンに撤退したことは知られている。一般に用いられるフィリピン市民人数は、2万6千人である。何人のフィリピン兵と米兵が捕われたかに関しては、やはりいろいろな数字が論じられている。バターンで捕らえられた米兵は、9千人から1万5千人と言われ、死の行進中に殺された米兵は600人から1,500人とされている。フィリピン兵はさらに大きな打撃を受けた。降伏時に6万人から7万人のフィリピン兵がバターンにいた。そのうち、生きてオドネル収容所に到達しなかった者は、低い見積りでは5千人、高い見積もりでは2万5千人と推定されている。日本軍による最終攻撃が始まった時点で、バターン防衛にあたっていた将兵の総数として一般的に受け入れられているのは、約7万8千人である。一般的に受け入れられているオドネル収容所到着捕虜の数は約5万5千人であるから、行進の途中で死んだ捕虜の数として約2万人を導き出すことができる。しかし、何人の将兵が捕われ、何人がオドネル収容所に到達し、何人が死んだのかを推定するには、次のような理由で幅がある。 ・バターンの住民の中に紛れ込んでしまったフィリピン兵の数は、不明である。 ・バターンでは往々にして、飛行機を失った航空隊員や乗艦を失った水兵などを歩兵として臨時部隊が編成されたことがあり、それらを記録することが追いつかなかった。 ・連隊の名簿は、バターンの深いジャングル、部隊の給与簿と信頼できる通信手段の欠如などの理由により、戦史や退役軍人の証言と照合しても、不正確であった。 ・降伏前にどの位の割合の将兵が死亡し、あるいは負傷したのかを推測するために、既存の名簿を全て点検するという作業が、これまで一度も為されていない。 ・降伏した部隊の組織は、バターン半島に撤退した時点で崩れ始めていた。降伏後は、日本軍により、またはその他の理由で将校が兵士から分離されたので、さらに崩れていった。それ以上に、各部隊が極度に混じり合ったため、サン・フェルナンドに向けて北上する行進で、捕虜同士が同じ列で行進するお互いを知らないということもあったであろう。 ・捕虜は、捕虜収容所に到着するまでは、野戦軍指揮官の責任下にあるとされていた。その後、俘虜管理部の管理下に移されたが、俘虜管理部はその少ない人員を、捕虜名簿製作を任務とする俘虜情報局と共有していた。その結果、米将校はオドネル収容所に何人の捕虜がいるのか推測しようとしたが、日本側からは、行進の前にもその後かなり経ってからも、正確な捕虜の人数を入手できなかった。 ・日本人収容所長は、彼の管理下にある捕虜の人数を集計しようとしたが、捕虜が3週間にわたって到着したこと、収容所内で多数が死亡したことなどが、その作業を困難にした。 ・降伏を拒み、コレヒドール島、あるいは山岳地帯に逃れ、ゲリラになった米兵・フィリピン兵の人数は不明である。 以上のように、捕虜になった者とオドネル収容所に到達した者の正確な人数が掴めないことから、バターン死の行進による死者の総数は、永久に議論の対象となるであろう。 残虐行為の種類 死の行進における死は、あらゆる形でやってきた。最初に“自然原因”が あった。バターンの兵士たちは4ヶ月間飢餓状態の食糧しか与えられず、またバターンにはマラリアや赤痢が蔓延していた。その結果、日本軍に捕われた兵士たち の健康状態は最悪であった。脱水状態や熱射病、病、過労や負傷などが、多くの男達を行進から脱落させたが、それは殆どの場合死刑の宣告に等しかった。少人数で監視にあたった日本兵の多くは、捕虜が脱走する可能性を残すよりは、倒れた捕虜をその場で刺殺するか銃殺したからだ。あるグループは全く水を持たず、脱水状態で死亡した。同じ道を南下する日本軍のトラックやタンクが、意識的に捕虜を轢くこともあった。ある者は、トラックに乗った日本兵から通り過ぎる際に頭を打たれ、殺されたり意識を失ったりした。日本兵は捕虜を銃剣で刺したが、将校は、捕虜の首を刎ねるのに軍刀を使った。ある者は何の理由も無く殺され、ある者は監視兵が日本語で与える命令に従わなかったために殺され、さらにある者は、指輪やその他の貴重品を差し出すことを拒んだために殺された。 皮肉なことに、日本兵と戦った記念品を持っていることを見つけられた捕虜は、直ちに殺された。日本将校が、ミッキーマウスの時計欲しさに米兵を殺したこともあった。生き埋めにされた者もおり、監視兵から銃口を向けられ、仲間を殺すことを強要された者もいた。フィリピン軍第91師団の400人が、整列させられ煙草を与えられた後で、日本軍第65旅団の兵士により、大量殺害された事件もあった。これについては、後で触れる。疾病、そして行進後に起こった多くの死は、殴打、負傷者の放置、そして行進中に悪化した負傷によるものだった。休憩所の不潔さは、赤痢などの熱帯病をさらに蔓延させた。これが犯罪の種類であった。 過去においては 第二次大戦以前の日本は、捕虜を適切に扱うという評判を得ていた。1904−05年の日露戦争当時のロシア人捕虜と、第一次大戦当時のドイツ人捕虜は、概して日本人に厚遇されたと語っている。第一次大戦中、日本は約4,500人のドイツ人を捕虜にし、日本国内15箇所に収容した。たぶんその中で最も知られているのは、ドイツ人捕虜が地元の人々と交流したピクニックで、ビールを飲みソーセージを食べながら畜産や哲学などについて語り合ったり、日本とドイツ音楽のコンサートに一緒にでかけたりしという、囲いの無い鳴門の 坂東収容所だろう。確かに、全ての収容所がそのように牧歌的な環境だったわけではない。幾つかの収容所で、手荒に扱われた捕虜もいた。しかし、第二次大戦中の虐待に少しでも近づくような扱いがあったという証拠は、見当たらない。 明治維新を通じて、日本は鎖国から脱却し、技術・軍事力の面で欧州・米国に追いつくことを目指し、戦争のルールも含めて、積極的に世界市民になりつつあった。日本は、捕虜の取り扱い条文を含む1907年のハーグ協定に署名批准し、その実施国であった。日本は1929年の赤十字条約とジュネーブ条約に署名したが、軍部の反対に遭い枢密院は条約を批准しなかった。そうであっても、第二次大戦前までの日本はハーグ条約を真摯に遵守していたのだが、第二次大戦になってそれらを全く無視したのだった。 大谷啓次郎著『捕虜』によると、日本の陸・海軍がこれらの協定を遵守しないことには、幾つかの理論的根拠があった。 ・捕虜になる前に死ぬことが求められている日本兵から捕虜が出ることはあり得ないから、この協定は、相手方だけを利する一方的なものと考えた。 ・捕虜を訪問することが許されている赤十字の代表が、スパイであるかもしれないと恐れた。 ・もし協定に従って捕虜を処遇すれば、米パイロットによる長距離の片道飛行が可能になり、日本本土が爆撃に曝されることを恐れた。 ・最後に、もし協定に従って捕虜を処遇すれば、それが自国兵士の取り扱いよりもよい待遇となることを恐れた。これについては後で触れる。 しかし、何が捕虜に対する日本人の姿勢と行動を劇的に変えてしまったのだろうか。 二等世界市民 ある者は、米兵捕虜への処遇の変化の原因は、セオドア・ルーズベルト米大統領が仲裁した1905年のポーツマス条約、または1920年代に米国が成立させた人種差別的土地所有移民法、あるいは1922年のワシントン海軍軍縮会議で定められた“主力艦の比率5−5−3”、あるいはこれらの全てによって、日本人が侮辱を受けたことにあったと、理論立てた。これらの刺激的出来事は、米国への憎悪を煽るため、日本の軍国主義者によって宣伝されたから、捕虜に対する姿勢に少しは影響を与えたかもしれない。しかし、英国や他の国の捕虜から特別に切り離して米国人だけを厳しく扱った形跡はない。現実には、中国人捕虜の処遇はさらに劣悪であった。それ故、これらの出来事が直接及ぼした影響は、ごく限られたものであったと思われる。 成文化された降伏の恥 大谷啓次郎のより的を射た議論によれば、日本兵にとって、捕われの身となることは死にも劣る運命で、彼ばかりでなく、彼の一族郎党にも大きな恥辱の刻印が永久に刻まれるのだという。彼は、その概念が日本の歴史上どこから来たのかを辿り、それが徳川将軍の時代(1603−1868)まで遡ることを想起させる文献を見つけた。しかしそれらの伝統は日露戦争当時と第一次大戦の前も生きていたのだ。それでは一体何が変わったのか。大谷は指摘する。第一大戦と第二次大戦の間、日本の陸軍指導者は、全ての兵が死ぬまで戦うことに利点を見出し、捕われの身となることの恥を、1941年1月から日本兵に配布され始めた(1943年まで受け取らなかった兵士もいたが)手引き書『戦陣訓』 の中に成文化して挿入したのだと。 この手引書の表向きの理由は、日本軍が南京を占領した後、何十万人もの中国人を組織的に殺害し強姦した南京虐殺のような事件が再び起こるのを防ぐため、というものであった。しかし、生きて虜囚の辱めを受けるよりも、自らの生命を絶つ方が望ましいという訓令は、日本兵に、彼らが捕らえた敵兵は降伏したが故に恥ずべき人間以下の存在であり、手厳しい取り扱いを受けて当然だ、という問答無用の理論を与えた。その考えは、実際に捕らえた捕虜が当然予測される恥を全く感じていない様子を見た日本兵の立場から見れば、恐らく増幅したであろう。
残虐性がさらなる残虐性を生んで よく聞く話は、大尉から批判されて腹を立てた中尉が軍曹を引っ叩いて蹴り、軍曹が伍長を引っ叩いて蹴り、伍長が二等兵を引っ叩いて蹴り、二等兵は馬小屋に行って馬を引っ叩いて殴る、というものだ。米兵やフィリピン兵は、将校や下士官からでさえ、このような仕打ちを受けることはなかった。将校であれ誰であれ、規律を維持するために、自分より下の者を殴ることは、米軍の規則に反することであった。捕虜にとって、日本兵から引っ叩かれたり、蹴られたり、殴られたりすることは、不当な暴力であった。日本兵にとっては、それは軍隊生活の一部であり、 彼らは、捕虜が自分の言っていることや命令を理解できないことに苛立つほど、もっと乱暴になった。 捕虜はまた、軍隊内における階級制度の最も底辺で、馬の代わりになった。彼らは往々にして、日本人下士官兵の欲求不満のはけ口、あるいはかつて自分の中にあった問題や、軍隊内での不公平(事実であろうと幻想であろうと)に対する怒りや復讐心のはけ口となった。日本軍の二等兵は階級制度の中で、やっと彼が蹴ったり、引っ叩いたり、殴ったり、拷問したり、殺すことさえ許される者を得たのだった。かつては最下級だったこれらの兵士が、捕虜の取り扱いを任されたときの、優越感の昂ぶりが目の当たりに想像できる。 文化的要因の他の一面 閉鎖的環境の中にいて軍国主義の扇動に染まりやすかった一般市民や兵士とは異なり、陸軍では明治以来、日本が早急に近代国際社会に仲間入りするため、将校を欧米に派遣し、それらの国々の文化や軍事を学ばせるという伝統があった。その体験により、欧米は裕福だが弱腰で、現状に甘んじているという、極右的見方を益々固定させた将校がいた一方、本間雅晴中将のような偏見を持たない将校は、外国の文化を深く研究し、それへの理解と尊敬を持つようになっていった。本間のような将校の世界観は、陸軍部内の超軍国主義の統制派に属する上官たちの狭量さを、遥かに超えていたのだ。より洗練され進歩的な傾向を持つこれらの将校は、狂信的な同僚や指導者の行き過ぎを埋め合わせしようとした。不幸なことに彼らの努力は往々にして、本間や彼の多くの部下がそうであったように、敵に“甘すぎる”として、指揮官からの解任という結果をもたらした。捕虜にとって同様に不幸だったことは、管理下にある捕虜を守ろうとする彼らの努力が、狂信グループに圧倒されてしまったことだった。仲間の犯罪行為を埋め合わせしようとしたこれらの将校がいなければ、捕虜の運命は間違いなくもっと悲惨なものになっていただろう。 憎しみのプロパガンダ このような陸軍の暴力の文化に加えて、憎しみのプロパガンダが組み込まれた軍隊教育を超保守的な将校から受けた平均的な日本兵は、一触即発で残虐行為に暴走する人間時限爆弾のようなものだった。鬼畜米英、白人将校の下に白人と共に(彼らの国のために)戦うアジア人への憎しみは、兵士だけでなく、子供から大人まで一般の日本人の心を毒した当時のお題目だったのだ。 戦時中、そして今でさえ、多くの米国人は、捕虜に対する残虐行為は、日本文化の欠陥と残虐な国民性によるものだったと考えている。これらの残虐行為を否定したり軽視したりしようとする日本政府高官・教育者・企業指導者の態度は、多くの欧米人やアジア諸国の人々が抱くこの考え方を引き続いて再確認させ、増幅させている。もちろん、日本人がみな残酷だと決め付けることは、全ての米国人が騒々しくて粗野、全てのフランス人がお高く留まっている、全てのドイツ人が冷たくて薄情だと、決め付けるのと同じくらい馬鹿げたことである。ある国の文化が残虐だったり、騒々しかったり、お高く留まったり、冷たかったりするのではなく、その文化の中に住む個人の特質であり、残虐で心無い狂信者が権力を手にしたとき、 ちょうど日本の軍国主義指導者がそうしたように、政府を乗っ取ったとき、彼らは、政治体制もそして彼ら自身の軍隊組織をも崩壊させてしまうのだ。 類が友を呼んで 人類の歴史の中で、戦争という異常事態によって崩壊した国は、日本だけではない。ナチスも、アーリア人の人種的純粋性を宣伝し、欧州全域に1千年続く帝国を築こうと目論んだとき、ドイツ国家に同じことをした。彼らは自分達の領土や国民が攻撃されたというまやかしによって他国への侵略を正当化し、その他の侵略は「生存のための空間確保」という一見穏やかで理に適った表現で正当化した。彼らの憎しみは主としてユダヤ人、身体不自由者、ジプシー、スラブ民族、その他の人間以下の存在、そして彼らに同意しない全ての者に向けられた。 日本では、東条英機将軍と統制派が(ナチス)同様、効果的に、穏健派・進歩派を徹底的に叩き潰して日本政府を乗っ取り、彼らの超保守的な計画を推し進めていった。彼らは大和民族の純粋さと、八紘一宇を実現する指導民族の概念を説いた。彼らは世界制覇への第一歩となる一見立派に聞こえる大東亜共栄圏を作り出すため、初期侵略の口実として満州事変・盧溝橋事件をでっちあげた。彼らの憤怒は主にアジア特に中国の人々、捕虜にした白人兵と民間人、そして自分たちに同調しない日本人に向けられた。右翼過激派は、人間の持つ低級な本能に訴え、日本国民はドイツ国民がそうであったように、常軌を逸した行動をするように操られ、彼らによって崩壊させられたのだった。当時蔓延していたこの憎しみの計画が、間接的ではあれ、捕虜に対して為された恐るべき残虐行為の大きな推進力となっていたのだ。友人が、家族が、そして社会全体が捕虜を痛めつけることを完全に支持しているとき、そうすることはいとも簡単なことであった。 本間雅晴中将
軍国主義文化が日本国民と陸軍に与えた影響の他に、日本軍がバターンの米兵・フィリピン兵が降伏した後に起こした残虐行為の大きな原因には、日本軍の佐官と将官クラスとの間にあった性格的・職業的な人間関係があった。前述したように、第14軍司令官本間中将は、進歩的で世界をよく見聞した高級将校の一人で、彼の指揮下での残虐行為には明らかに反対していた。しかし戦後、部下の日本軍がフィリピンにおいて犯した戦争犯罪の責任を問われて銃殺刑に処せらされたのは彼であり、本当の犯罪者はまんまと逃げおおせたのだった。本間の罪は主として、彼が第14軍司令官であったという事実に基づいていた。また本間は、バターンから捕虜を移動させる計画と、部下の将校が捕虜を人道的に取り扱うようにという彼自身の命令に従わず、むしろ部下に悪意ある残虐行為を働かせていたことを、詳細に把握していなかった責任も問われた。
本間が、捕虜を適切に取り扱う努力をするにあたって、幾つかの悪条件があった。第一に、彼の上官と、彼が避けようとした虐待を推進する陰謀を企てていた過激な部下たちとの人間関係があった。 伊藤正徳著 『帝国陸軍の最期:進攻編』 によると、問題は、彼が第14軍司令官を命じられたその日から始まったという。伊藤は、本間と陸軍参謀総長・杉山元大将との会見を詳細に描いている。杉山は1941年11月初め、来るべき米・英との戦争について議論し、新しい地位に任命するため、秘密裏に本間、山下奉文、今村均の各中将を召集した。本間は、これら両国と戦うことは間違いだと感じ、杉山に対しても特に遠慮はしなかった。彼は、他の将軍の面前で言った。“敵の兵力も装備も知らず、たった2個師団で、戦争開始後50日でマニラを占領しろというのは、無理な注文だと思いませんか。私は、両軍の兵力と戦闘準備状況を徹底して調べた後、軍司令官の意見を徴するのが、もっと適切かと思います”伊藤によれば、“杉山の顔は真っ青になり、両手は怒りで震え、通常は柔和な顔が苦々しい表情に変わった”という。彼は昂ぶった感情を剥き出しにして“これは、陸軍参謀本部の調査に基づく結果だ”と言った。 本間と杉山の間の悪感情は、作戦が開始されてからさらに深まった。当初本間はマニラ占領の任務だけを与えらており、杉山とそのスタッフは、その時点でフィリピン軍と米軍は降伏すると想定していた。本間は1941年12月22日にフィリピンに上陸し、1942年1月2日にはマニラ入りを果たして、この任務を2週間で達成した。岡田益吉著『日本陸軍英傑伝』 によると、本間の参謀長前田正実少将は、米兵・フィリピン兵がバターンに退却したならば、もはや日本軍への脅威とはならいので、彼らにオランダ領東インド諸島の資源獲得のための進攻を邪魔立てさせないという本間の戦略目的は達成された。それ故、当初の作戦計画に従うことを望んだという。 前田は、日本兵を無駄に投入するより、補給と援軍を絶たれた米兵・フィリピン兵を単にバターンに封鎖し、彼らが自発的に降伏するか飢えるかを待てばよいと論じ、本間もこれに同意した。皮肉なことに、この同じ策略は、その後 米軍が、ラバウルなどで包囲した日本軍守備隊を放置して自滅させたときに用いられ、多くの米兵の生命を無駄に失わずに済むことになったのだ。 しかし杉山は、全日本軍をもってしてもバターンに立て籠る一握りの果敢な米兵とフィリピン兵を制圧できない、といった内容のアメリカのプロパガンダに怒り狂った。それを日本陸軍への侮辱と受け取った杉山は、単にバターンを封鎖するという当初の計画を変更した。彼は前田を解任して転出させ、代わりに自分の子飼いの和知鷹二少将を据え、バターンを攻撃して米兵・フィリピン兵を打破するよう、本間に命じた。 興味深いことに、アメリカのプロパガンダに怒りを感じていたのは、杉山だけではなかった。バターンとコレヒドールに立て籠った兵士たちは、サンフランシスコ放送のKGEI局 で、ウイリアム・ウインターが “できるものならコレヒドールを爆撃してみろ” などと言って、日本軍を刺激し続けたことに、苦々しく抗議した。現実に爆弾や砲弾を受ける身の彼らは、本国にいて空威張りをしながら日本軍を挑発する人物を許せなかったのだ。 バターンを攻撃せよとの杉山の要求は、本間の作戦目的を著しく変更させることになった。敵が確固たる要塞を持たないルソン島の平坦地で、機動作戦によりフィリピン軍を打破する代わりに、今や彼は、自らの生存をかけて立て籠る敵を攻撃しなければならなくなったのだ。彼の問題をさらに複雑にしたのは、米国の航空軍に相当する第五航空隊がビルマに転出し、彼の最強の師団で戦闘経験豊かな第48師団が、ジャワ攻略作戦のために第16軍に移動したことだった。第48師団と入れ替わったのは、“守備隊”と呼ばれた訓練・装備不足の第65旅団であった。 また杉山は、マニラだけでなくフィリピン全土を50日で掌握するよう、本間に求めていた。第14軍がバターンの防衛軍を攻撃するにしても、本間は作戦を成功させるための兵力も火力もこと欠いていた。この状況下において、彼は平身低頭して援軍を懇願しなければならなかったが、杉山が援軍を与えたのは、何度かの防衛軍撃退作戦が失敗した後であった。この時点で本間は50日の期限をかなり過ぎていたから、著しく面目を失墜した。 杉山は、天皇の名で本間に公文書を書き送り、自害させようとさえした。それがもし本当に天皇からの文書であれば、本間がとるべき唯一の行動は自らの手で生命を絶つことだった。実際のところ、米兵・フィリピン兵の間では、本間がバターンの防衛軍を潰せないため切腹したという噂さえ流れた。本間にさらなる屈辱を与えるため、杉山と最高司令部の一行は、本間を陣中見舞いするべく、1942年4月3日に空路マニラ入りした。
4月3日金曜日は、初代神武天皇が崩御した日であり、武器・弾薬・兵員の増援を受けた本間が、米兵の間では復活祭攻撃として知られるようになる、バターン攻略の最終攻撃を開始した日でもあった。本間は、攻撃には一ヶ月はかかると感じていたが、食糧も弾薬も欠乏したバターンの病める防衛軍は、キング将軍が降伏するまで、6日しか持続できなかった。 杉山はマニラに到着するやいなや、本間がフィリピン人に生ぬるいことを糾弾し、(日本軍の)シンガポール住民への残忍な扱いを褒め上げた。生出寿著の辻正信伝記『作戦参謀』によれば、彼はフィリピン人が“不従順で非協力的”だと考えていた。杉山は、辻や参謀本部作戦課長服部卓四郎大佐などに、彼が望んだ(フィリピン人からの)卑屈な服従を得られないのは、全て本間が生ぬるいせいだと、苦々しく不満をぶちまけた。捕虜と民間人収容者に対しては、より厳しい取り扱いを徹底させるため、杉山は辻中佐をフィリピンに派遣した。 作戦の神様
辻の経歴を知らなければ、彼がマニラに送られたことの重大な意味はわからない。20世紀初頭に石川県のつましい炭焼きの息子として生まれた辻は、名古屋幼年学校でその非凡さを示し、東京の陸軍士官学校に進み、1921年に陸軍大学を卒業すると直ちに陸軍参謀本部に配置された。最初から過激な超右翼だった彼は、東条の統制派に加わり、他派の追い落としや杉山、牟田口廉也中将のような人物が権力を掌握する手助けをして、巧妙な陰謀者であることを示した。彼は、まさに過激な天才と形容されるにふさわしい人物であった。 どれだけ過激だったのか。彼は1930年代、軍国主義者に国家を治めさせるという統制派の目的に自分の人生を全て捧げるため、妻と離婚し子供を捨てた。彼は、自分が不死身だと信じた。“地獄船”の予行演習として、彼は1941年6月のマラヤ進攻作戦の訓練中に、完全装備した何千人もの日本兵をうだるような船倉に畳1畳に3人の割で詰め込み、ほとんど水を与えず1週間入れておいたという。Tsuji at www.fortunecity.com で読めるインターネット版辻の伝記によれば、これは、閉じ込められた兵士のうち何人が船倉から出された時点で、まだ戦うことができるか、それを見るだけの理由で行われたのだという。 Morrison & Susan Harris は彼らの共著 『Soldiers of the Sun』 で、辻を“作戦に関する素質に恵まれた類稀な参謀将校−但しその才能は、誇大妄想的野心、暴力的偏見、そして無慈悲なほどの人命軽視によって台無しにされた” と正確に表現した。彼らはまた、彼を東条や参謀本部で最も人気のあった“死と栄光の変人”の一人で、日本版暴れん坊ともいえる“下克上”(文字通り、下級の者が主人を倒すことを意味する)グループの最たる例である、と書いている。“下克上グループ”というのは、“性急かつ無節度で野心に溢れた” 30代の陸軍将校たちの集まりで、彼らは、陸軍と国家があるべき姿に関して自分たちの意見を通すため、 勝手な行動を起こす傾向があった。誰もが最も優秀な日本の将軍と認める今村大将は、John Tolland 著 『The Rising Sun』 によれば、辻の天才的才能に気付いていたが、同時に彼の中に狂気も見ていたという。 満州の軍国主義者の精神的指導者であった禅僧 Gempoの伝記を著した高木そごうによると、辻は、日本人の中国人に対する憎しみを煽ろうと目論んで企てられた1932年に田中隆吉が関与した上海事件の扇動者だったという。辻のもう一つの癖は、以前の上官に敵意を示すことであり、間もなく田中に対しても攻撃を始めた。生出の田中に関する『日本軍閥争史』によれば、田中が偕行社(東京の将校クラブ)の雑誌に、日本は米国と戦っても負ける、と論じる記事を発表すると、辻は公然と彼を臆病者と呼んだという。 杉森久英著『辻政信』によると、辻はまた、開戦前の総理大臣近衛文麿が、日米間の懸案を平和裏に解決しようと考えたことに対して、“日本一の臆病者”と呼んだという。David Bergamini著 『Japan's Imperial Conspiracy』 は、辻はそれだけで満足せず、近衛が死ねばよいと願い、“列車爆弾”計画の一員になったと書いている。計画は、東京から横須賀まで予定されていた近衛の外出に使われる汽車に爆弾を仕掛けるというものだったが、近衛が退陣し、東条が総理職を引き継いだため、暗殺の必要がなくなったのだという。 もっと個人的なレベルでは、彼はナチス指導者と同様、禁欲主義者であった。彼は、快適な住まいやナイトクラブ、売春婦など、人生の唯一の目的と彼が信じる戦争遂行の邪魔になるあらゆる物に関心を持つ将校を嘲っていた。一度などは、将校が大挙して入り浸っていた芸者茶屋に、彼らの考え方を変えるために火を放ったという噂もあった。またあるときは、同僚の汚職を憲兵隊に密告し、その将校は自殺した。ある将校が辻を探していると、「ああ、あの気の狂った男なら、馬小屋の裏の不潔な部屋に住んでいるよ」と告げられたという。 辻は、“戦争渇望者”であり、戦争が近づくと、彼は開戦することと、国の内外で彼が敵とみなす者に容赦ない争いを挑むことに、自分の全生命を捧げた。戦争のための戦争は、彼の性挌に完全に合っており、彼は、最初ソ連との開戦を主張し、日本軍がノモンハン事件でジューコフ元帥に敗れると、今度は米・英との開戦に目を向け始めた。彼は、和平を願うような者は全員、罰として直ちに前線に送るべきだと信じていた。 辻は開戦直前、“南進”のマラヤ作戦部分の責任者だった。彼は、飛行機を飛ばし自ら現地を偵察までして諜報収集を行った。彼はその後、主任参謀として第25軍の山下将軍の 副作戦将校として配属され、そこで“作戦の神様”という異名をとった。もっとも同僚の将校の何人かは、彼の作戦能力よりも、シンガポール攻略に日本陸軍の選り抜きの部隊を投入できた彼のコネがものをいったのだと主張した。 シンガポールが陥落するや、辻は華僑掃討作戦を命じた担当将校として、戦争犯罪に何ら躊躇しないことを速やかに実証してみせた。中国系共産党ゲリラを討伐するという口実で、彼は、3千人から1万人の中国系シンガポール住民の殺害命令書を書いた。この事実は、彼には、目的に適っているとなれば、言葉では言い表せない程の残虐行動をとる傾向があり、またそれを実行できることを実証していた。殺戮は一ヶ月にわたって続いたが、第25軍は既にスマトラに移動しており、シンガポールに残されたのは占領部隊だけであったから、山下と彼のスタッフが辻の行動を知ったのは、ずっと後のことであった。 謀殺 辻がフィリピン派遣を命じられた頃までに、彼の名声は急速に上昇中であった。マラヤ作戦の計画によって、彼は日本の軍人にとって最高の栄誉である恩賜の軍刀を授けられていた。その間、本間の評判は急速に衰えていた。杉山は、フィリピン攻略が終結する前に本間を解任したかったのだが、1942年8月に解任し、本間は二度と指揮官の任を与えられることはなかった。 数多くの日米の資料によれば、“作戦の神様”が本間の司令部に到着するや、辻とその信奉者による風説作戦が始まった。それは本間の部下で辻の信奉者以外の将兵に、杉山が、米国人はアジア人を搾取した帝国主義者であり、フィリピン人は米国人を支援したことでアジアの同胞を裏切った者であるから、バターンの捕虜は全員処刑すべしと考えていることや、日本の意思に従わない者を、見せしめにする必要があると威嚇することだった。辻はさらに、捕虜が死んでしまえば、無駄な時間も労力も資源も使わずに済み、コレヒドールの防衛軍を海に追い落とすという本来の目的に専念できると、正当化した。 バターンが落ちるやいなや、辻はそれまでに使ってうまくいった策略を使い始めた。彼と彼の信奉者は、前線の将校に電話をかけ始め、杉山と参謀本部からの命令であるとして、彼らの指揮下にある捕虜を全員処刑するように命じたのだ。ほとんどの上級将校は、この“命令”を無視した。第141歩兵連隊の今井武夫大佐は、松永梅一中佐から電話で、参謀本部が辻を通じて出した命令は、彼の指揮下にある捕虜全員を銃殺することだと、告げられた。今井は書面による命令を要求し、もし現実に書面による命令が到着した場合に備え、彼の指揮下にあるフィリピン兵と米兵を武装解除し、バランガに向かう主要道路に釈放した。銃殺しなければならない捕虜を指揮下におかないためであった。辻の別の 信奉者であると都渡正義少佐は、藤田相吉大尉に、彼の第142歩兵連隊が捕虜を皆殺しにすべしと、電話した。藤田は即座に拒否し、軍法会議にかけることを要求した。捕虜を殺害しようとした辻の企みが暴露することを恐れた都渡は、一時間後に再び電話して、先の命令を取り消した。 不幸なことに、辻のにせの命令はいつも無視された訳ではなかった。第141と第142歩兵連隊はどちらも、第122連隊同様、第65旅団所属であった。にせの命令に従って、フィリピン第91師団の兵士約400人を縛り上げて整列させたのは、おそらく第65旅団の第122連隊の兵士であった。将校が列の一方の端から軍刀で首を刎ね、兵士は他の端から銃剣で刺殺し始めた。 辻はまた、フィリピンの政治指導者たちを暗殺するよう、せき立てた。フィリピン最高裁判事ホゼ・サントスは絞首刑に処せられ、辻の魔手から逃れたマニュエル・ロハズは終戦直後にフィリピン大統領となった。 辻の捕虜殺害作戦は、一部の将官と佐官クラスには無視されたかもしれないが、辻が捕虜の取り扱いに関して指揮権をもっており、彼が杉山からの直接命令で行動しているという噂は、下士官兵の間に広まっていた。コレヒドール攻略のために南下していた部隊の下級将校や監視兵、そして他の日本兵ですでに捕虜に殺意を感じていた者は、その噂が、お咎めなしで残虐行為ができる許可証のようなものだと考えた。辻やその 信奉者の狂信的な考え方に与しない下級将校や兵士は、この“空言”を無視し、捕虜をまともに取り扱い、ある場合にはサン・フェルナンド駅までトラックに乗ることを許可し、水と食糧を与えるかそれらを求めることを許可したのだ。従って、捕虜と接触した全ての日本兵が残忍な人非人であったと見なすことは、公平でなくまた正確でもない。人非人であった大多数がバターン死の行進中に犯した残虐行為が、あまりにも大きく、かつ恐ろしい規模であったため、彼らの行動は、他の日本兵が捕虜に対して示したいかなる親切や礼節も、完全に覆い隠してしまったのだった。 辻の最期 辻は戦場においては恐れず敵に立ち向かっていくという、彼にふさわしい名声を博していたが、日本の降伏後、他の者には国の為に生命を捧げ、残虐行為をすることを説いていたにも拘わらず、自分は坊主の袈裟をまとい、英・米の戦争犯罪訴追者から身を隠したのだった。バターン死の行進の共謀者であった杉山は自ら頭部を撃ち抜き、また彼の妻は短刀で喉を突き刺し自害した。降伏の屈辱に耐えられなかったからだ。未だに筋金入りの右翼であった辻は、新しい主人蒋介石のもとに馳せ参じ、日本に帰るまで、彼の作戦立案能力を共産党中国人の殺戮に役立てたのだった。 1952年の日本で、辻は逃亡生活から姿を現し、逃亡に関する回想録 『潜行三千里』 を出版した。それがベストセラーとなり、新しく発見した人気に乗じた彼は、自由民主党という奇妙な名前の極右政党(今日に至るまで、この政党は、自由も民主主義をも推進してはいないのだが)の一員として、日本国会の衆議院議員、そしてその後は参議院議員の議席を得た。1959年に、あまりにも極右過ぎ、党首で元戦犯仲間であった岸信介に楯突いたという理由で、彼は自民党から破門された。それで彼は諜報活動に戻り、池田隼人総理のためにインドシナ半島に旅したと、言われている。1961年4月20日、ラオスのビエンチャンからハノイに向けて飛び立ったところで、辻の消息は途絶え、その後彼を見た者は誰もいない。彼の最期に関してはさまざまな憶測が飛び交い、極右グループはこの“作戦の神様”をますます神話化させたのだった。 殺戮の記憶 本間の第14軍を編成するために当初割り当てられた2個師団のうちの一つは、4万人と推測される中国人捕虜と24万人にものぼる民間人が殺戮された南京虐殺事件に参加した悪名高い第16師団であった。この事件は、下級将校がその指揮下にある兵士に民間人と捕虜に対して暴力の限りを尽くすことを許可した初めてのケースで、日本政府には、ヒトラーのドイツさえも含んだ世界中の政府から抗議が殺到した。総司令官の松井岩根将軍は、日本陸軍の兵士が野蛮人でないことを示すために加害者を処罰しようとしたが、処罰は戦後にいたるまで行われなかった。本間の場合と同様、残虐行為の責任を問われたのは、実際に兵士を監督する責任があった下級将校ではなく、松井であった。全く咎められることなく大規模な殺戮を行うことに慣れた兵士がバターン攻略に参加したことは、そこでの殺戮を減らすのに何の役にも立たなかった。 激情に駆られた犯罪 どんな軍隊でも、戦闘が激化すると残虐行為に走るものである。多くの戦友や同僚が戦死した激しい戦闘に打ち勝った兵士は、制圧される寸前で降伏しようとする敵兵に、復讐したいと願う傾向がある。この種の殺戮は見逃されることが多く、既に捕われの身となった兵士に対して大規模な殺戮が行われることは、近代戦では稀なことである。しかし辻の督促の他に、おそらく激情に駆られたことが、日本第65旅団の兵士がフィリピン第91師団の400名を殺害した理由だったであろう。第65旅団は、フィリピン戦で日本軍の他のどの部隊より多くの戦死者を出したものと思われる。豊田千代美氏によると、彼が所属した第65旅団・第141歩兵連隊の彼の小隊が、4月3日のバターン攻撃開始以来、食糧が初めて補給されたのは、6日目の米兵・フィリッピン兵が降伏した4月9日で、連隊の70%は戦死し、彼が生き残った唯一人の小隊長だったという。 復活祭攻撃のさなか、フィリピン第41師団が昼寝をしていた第65旅団所属の数隊を奇襲し、撃退されるまでの間に大打撃を与えた時、第65旅団の被害は一気に増大した。それ故、日本軍の生存兵が同じ地域にいた第91師団に間違って怒りをぶつけ、復讐した可能性がある。しかし、この大量虐殺が計画的、かつ冷淡に行われた様子は、激情に駆られてというよりは、処刑命令によったことを暗示している。大量殺戮の他に、降伏しようとする個人や小人数のグループの兵士を射殺したという報告もあるが、これらは激情に駆られた犯罪の範疇に入るだろう。 無能と不運 米国人歴史家 Stan Falk 著 『Bataan: The March of Death』によると、本間は、彼の輸送担当官かわねよしたか少将、兵站担当官高津としみつ大佐、高津の補給担当補佐官和田もりや少佐、衛生隊の関口ひさし少佐、そして本間の作戦地域から捕虜を行進させるために充分な水を確保できる井戸掘り担当の中尉のメンバーで計画班を結成した。彼らは、バターンから65マイルの行進中、捕虜に食糧・水・医療を提供し、負傷者は車両輸送するという、一見実行可能な計画を本間に提出した。計画は本間の指示により、基本的にはジュネーブ条約の捕虜取扱規則に従っていた。しかし、不運、怠慢と本間の部下将校の若干名が無能だったことが重なり合って、計画は無残な失敗に終わった。 主目的 50日間の期限をつけたまま、杉山が本間の目的を変更したことは、本間と彼のスタッフに、戦闘を速やかに終結させなければならないという大きな圧力をかけることになった。バターンが陥落したとき、彼は既に122日を費やしており、さらにコレヒドールを攻略しなければならなかった。杉山が望んだ二倍以上の日数をかけても、本間は目的の一部しか達成していなかったのだ。杉山の日程から大幅に遅れただけでなく、本間は援軍と物資の追加も懇請しなければならず、それは他の部隊からの割愛と、アジアの他の地域への総合的な “怒涛の進攻” の遅延を意味した。それ故、彼の主目的はコレヒドールを一日も早く粉砕することだったが、援軍と彼の精一杯の努力をもってしても、ジョナサン・ウエインライト中将からフィリピン全軍の降伏を勝ち取るまで、さらに一ヶ月を要したのだった。本間の部下将校によるこの捕虜移動計画は、本来の任務に加えてなされたもので、その結果として、コレヒドール攻略という主目的より優先順位が落ちたことは理解できる。計画は書類の上ではよく見えたが、幾つかの重大な欠陥があったのだ。 何人の捕虜を何日かけて行進させるか 最初のそして最も重大な欠陥は、本間の情報担当将校であるはばひかる中佐によるものとされている。はばが推定した敵の兵力と将兵の健康状態を基に、本間はバターンを陥落させるには1箇月を要すると予期した。しかし、実際には援軍を加えた第14軍がキング将軍の戦線を突破するのに、6日しかかからなかった。1箇月の行程表に従い、計画班は4月の第3週までに適切な準備を整えて実行に移す時間は充分あると考えていたのだが、2週間遅すぎた。その結果、彼らは必要とした物資のごく僅かを確保しただけで、この計画を実施しようとしたのだった。 次にはばは、敵の兵力を2万5千人、どんなに多くても4万人を超えることはないと推定していた。実際にはその二倍近い7万8千人だったのだが、計画は、4万人の捕虜を想定したものだった。 第三に、本間によれば、はばが防衛軍将兵の健康状態を正確に評価していなかったか、あるいはそれを本間に報告することを怠っていたため、本間も計画班も、敵の将兵が衰弱しきっていることを知らなかった。防衛軍将兵は、既に1箇月以上にわたって通常の四分の一以下の食糧しか配給されておらず、バターン南部に蔓延する悪名高い各種の熱帯病に冒されていた。その結果、行進計画は食料を充分に与えられた健康な日本兵が一日に行進できるとされる距離、すなわち25マイルと、本間が遵守することを希望したジュネーブ条約によるそれを超えないようにと定めた基準の12マイルの双方を考慮に入れたものだった。食糧と水の供給場所は、だいたいこれらの間隔ごとに設置されるはずであった。 サイドショー 本間のフィリピンでの戦闘は、杉山と参謀本部から見れば、蘭領東インド諸島の石油とゴムを手に入れるという真の目的のサイドショーであったため、そして恐らく彼らの間の個人的な確執もあり、本間は兵站や医療品などで不当な扱いを受けていたので、余剰がなかった。したがって、彼の部隊はしばしば食料が欠乏し、医療も充分でなかった。食糧不足のため、本間の部隊の配給糧は一人一日1キロ弱に減らされ、一日600グラム弱の食糧で1箇月間かろうじて生きていた米兵より三分の一程度多いだけであった。それ故、捕虜に食糧を分け与えようとする日本兵は、ほとんどいなかった。実際のところ第14軍の食糧不足は、日本兵がフィリピン兵・米兵の食糧倉庫で見つけた食糧や、捕虜個人が持っていたわずかな食糧も取り上げようとした一因であった。計画によれば、捕虜はバランガまでの行進に充分な食糧を各自が残しているはずであった。捕虜が行進の開始前とその途中で、ほとんどの所有物を日本兵から組織的に盗まれて、食糧がある者は殆どいなく、水がある者も極めて少ないことは、計算に入っていなかったのだ。水筒と飯盒、そして摂氏40度の暑気から辛うじて身を護る靴と帽子をそのときまだ持っていた捕虜は、自分を幸運だと考えた。ほどなく日本軍は、投降した軍医から医療品や医療器具を取り上げてしまった。これは、彼らが行えた医療行為に直接影響することになった。後になって医療品や医療器具の不足は、行進中の死亡者を増やし、その後オドネル収容所到着後の3〜5週間の間に、1600人の米兵と2万人のフィリピン兵の死をもたらすことになった。
日本軍による捕虜撤退の指揮統制も、行進が始まると同時にほとんど崩壊した。捕虜の大移動を指揮する責任は、二人の将校の間で分担されていた。高津は、捕虜と監視兵を組織して、バランガに移動させる責任を負っていた。捕虜はバターン半島南端のマリベレスから出発してバランガまで30マイル近くも歩かねばならず、一方、ある者は10マイルだけを、食糧もときには水もなしで歩かなければならなかった。バランガではかわねが、その31マイル先にあるサン・フェルナンドまで捕虜を移動させる責任を引き継いだ。彼は、バランガからルート7沿いに8マイル北の地点にあるオラニと、そこからさらに15マイル北の地点にあるルバオで食事と水を与え、捕虜に必要な医療を施す施設を配備することになっていた。そして彼らはサン・フェルナンドの駅まで、最後の8マイルを行進するはずであった。バランガとサン・フェルナンドの2箇所には、千人の捕虜を収容できる病院も設置されるはずであった。(注:1マイルは約1.6キロメートル) 捕虜はサン・フェルナンドから、狭軌の定員40人乗りの貨物列車に100人ずつ詰め込まれ、オドネル収容所近くの側線まで運ばれた。しかし、この責任を負った二人の将校の間の連絡は、不十分だったか、あるいはほとんどなく、どちらも、相手が捕虜に何をしているのか、またはしていないのか、知らなかった。その間、コレヒドール攻略の準備に追われていた本間は、“日本兵は、捕虜を友愛の精神をもって取り扱うべし”と全軍将兵に命じた後、捕虜問題は彼の部下にまかせていた。伊藤によると、前線の取材に来ていた画家や写真家の報道班員が、行進で実際に起こっていることを目撃して本間に報告すると、彼は直ちに参謀長の和知に、捕虜を救済の手立てを講じるように命じたという。 結び 全ての他の惨事と同様、バターン死の行進は、結局、多くの誘引が重なり合い、破壊的な事件が惹起された結果であった。バターン死の行進について表面的知識しか持たないほとんどの米国人は、それがあらかじめ計画された捕虜殺戮であったと思い込んでいるようだが、辻が捕虜を全員殺害しようとしたことを除けば、本間が組織的に捕虜を虐待し、殺害しようと計画していたという主張を裏付ける証拠はない。宣伝に洗脳されたほとんどの日本兵の態度と、バターンから捕虜を移送するための適切な計画を実行に移せなかった第14軍最高司令部の失敗が、悪夢のような殺戮の混乱を惹起した主因であった。 ある日本将校は、捕虜をトラックで、何ら問題もなくサン・フェルナンドまで乗せていった。他の将校は、捕虜にほとんど食糧も水も与えないまま、マリベレスから北のバランガに向けて行進させ、そこで回れ右をしてマリベレスに戻り、さらにもう一度回れ右をして北に向けて行進させた。ある監視兵は、捕虜を定期的に止めて水を飲ませた。他の監視兵は捕虜に水を与えず、道路わきの井戸や湧き水を飲もうとした捕虜を銃撃たり銃剣で刺殺したりした。ある者は、衰弱や病気のために行進できない捕虜をそのまま休ませ、北上する次のグループに合流させるか、トラックに乗せた。他の多くの者は、行進について行けなくなった者を殺害した。捕虜を軍刀術の稽古に使った将校もいたし、捕虜に煙草を与え、戦前訪れた米国での日々がどれほど楽しかったか、気軽に話す将校もいた。前述のように、ある将校は捕虜を単に武装解除し、バランガまで自分たちで好きなように行かせた。別の将校は捕虜を並ばせて謀殺した。 この分裂症気味の行動の最たる例は、バターンにあった2箇所のフィリピン・米軍野戦病院で起こったことである。中山もとお大佐が、第一病院で負傷した日本兵が手厚い治療を受けているのを見ると、病院の医師は、降伏から2箇月半の間、全く妨害されることなく医療行為を続けることを許可した。第二病院での体験は、正反対であった。興味深いことに、第二病院の責任者は、本間が捕虜の移動計画の作成を命じた衛生隊の関口であった。病院を防衛するはずの日本軍が、患者の食糧を奪い、医療品・医療器具や医師・患者の私物を盗み、病歴録を破棄することを許可したのだ。女性患者は強姦され、病院周辺に布陣した砲兵隊が、コレヒドールから砲撃の返礼を受けないように、患者は人間の盾として使われた。このような状態が3週間も続いたのだった。 バターン死の行進に参加した両軍の兵士の多くは既に亡くなっているか、その原因に関心を持つ年齢を過ぎている。しかし、日米両国の人々は、私たちの社会で、そして他の社会でこのような犯罪が再び起こらないようにするため、何が起こったのか、何故起こったのかを知る必要がある。そうすることにより、憎しみの唱道者が、無力で無実な人々に対して死の暴力行為を働くことに歯止めをかける手助けができるのだ。自らの歴史を無視する者は、きっとそれを繰り返すに違いない。 謝辞
2年前、私はコレヒドールで戦い、その後日本軍の捕虜になった父の体験を伝える本を書き始めました。連合軍捕虜に対する日本軍の残酷な取扱の原因について探索をつづけるうちに、徳留絹枝さんのウェブサイトhttp://www.us-japandialogueonpows.org と出合いました。日本政府と日本企業が、私の父親が受けた残虐行為は事実であったと認めることをいかに拒否してきたかを述べる多数の決まりきった記事はすでに読んでいましたので、太平洋戦争勃発当時において、日本軍が怒涛のような進撃をする中で、捕虜の身の上に実際に起きたことを、当の日本人が本当に理解しようとしているウェブサイトを見て驚きました。残虐行為があったことを認め、日本軍の捕虜になった連合国軍軍人の取扱はどうだったのか、ありのままの事実を一層理解しようと、私と同じ努力を続けている人が日本にもいると知り、私の心の中に人間同士の信頼感が甦りました。父が受けた取扱は、日本側の観点ではどう見えるのか、その点をさらに理解しようと、私はすぐに徳留さんと連絡をはじめました。 菅原氏が翻訳した文書を読んで、次々と質問が生じました。以前に翻訳されたことのない日本側の文書から、彼が見つけてくれた多数の事実は、1941年から42年にわたるフィリッピン戦と、その直後の出来事について、一般に受け入れられている歴史の見解とはまったく違った新しい見解であると私が理解するまで、彼はいろいろの文書を翻訳してくれました。 菅原氏が見つけてくれたこの見解を、あの残虐行為を蒙った側の米国の歴史家や退役軍人と分かち合わなければ、死の行進のような恐るべき事件を引き起こした原動力について、彼らによりよく理解してもらう機会を与えないことになると思います。
菅原氏と徳留さんの手助けがなかったら、私はこの記事を決して書くことがなかったでしょう。また、日本語に堪能な人を除いては、この新しい見解は埋もれたままであったでしょう。
私の父
John Tillman Nelson (1923-2005) 参考文献
日本側の資料 大谷啓次郎著『捕虜』図書出版 1978年 杉森久英著『辻政信』文芸春秋社 1963年 生出寿著『作戦参謀 辻正信:ある辣腕参謀の罪と罰』 光人社 2003年 伊藤正徳『帝国陸軍の最後・進攻編』光人社 1998年 伊吹由歌子氏提供のもの
豊田千代美氏インタビュー 米国と英国の出版資料 Bergamini, David, Japan's Imperial Conspiracy How Emperor Hirohito led Japan into war against the West, William Morrow & Co., 1971. Daws, Gavan, Prisoners of the Japanese: POWs of World War II in the Pacific, William Morrow and Company, 1994 Falk, Stanley L., Bataan: the March of Death, Norton, 1962. Glusman, John A. , Conduct Under Fire, Viking, 2005 Harries, Meirion and Susie, Soldiers of the Sun: Random House, 1991 Kerr, E. Bartlett, Surrender & Survival, William Morrow and Company, 1985. Knox, Donald, Death March: The Survivors of Bataan, Harcourt Brace Jovanovich Publishers, 1981. Lawton, Manny, Some Survived, Warner, 1984 Martin, Adrian, Brothers from Bataan: POWs, 1942-1945 , Sunflower University Press Manhattan Kansas - 1992 Morton, Louis, The War in the Pacific: The Fall of the Philippines, Center for Military History, Washington, DC, 1953 Taylor, Lawrence, A Trial of Generals, Icarus Press, 1981 Toland, John, But Not in Shame, Random House, 1961 Toland, John, The Rising Sun, Bantam, 1970 Tsuji, Masanobu, Japan’s Greatest Victory, Britains Worst Defeat: Capture and Fall of Singapore, 1942, Spellmount Publishers Ltd. 1997 Tsuji, Masanobu, Underground Escape, Asian Publication, 1952 Victoria, Brian, Zen War Stories, Taylor & Francis, 2003 Ward, Ian, The Killer They Called A God, Media Masters, 1992
インターネット上の資料の説明
American Defenders of Bataan and
Corregidor
|