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ヘンリー・モファット・ナイジェル
この素晴らしい眺めを楽しもう、そして決して忘れまい、この湾はいつもこんなに美しく平穏な場所ではなかったことを。第二次大戦はこの湾で荒々しい様相を見せた。今日のスービック湾が穏やかなら、どこで、誰が、平和な今日を迎えていようと、それは高い値を払ってあがなわれたのだ。 日々の平和を神に感謝する。平和をもたらす人に感謝する。どんな代償でも、平和のためには払う価値がある。そのためには戦い、死ぬ価値がある。神様へ感謝すると共に最も高価な代償を払った人々を私たちは決して忘れまい。 1944年12月、この岸辺から300ヤードのところで、地獄船 鴨緑丸は沈んだ。甲板の下の三つに仕切られた船倉には、1,600人あまりの捕虜たちがすでに二日のあいだ地獄のような状況で押し込まれていた。このうち1,000人あまりはアメリカ軍将兵で、バターン、コレヒドールで戦い、バターン死の行進生存者たちもいた。フィリピン各地の捕虜収容所で2年間の月日を耐え、生き延びてきた者たちだった。 1944年秋ごろには情勢は変化しつつあり、フィリピンの開放は近づいていた。日本軍は出来る限り多数の捕虜を日本や満州に連れ帰っていた。 捕虜の輸送船は、地獄の船、ヘルシップとして歴史に名をとどめるに至ったが、鴨緑丸は中でも特に悲惨な運命をたどった船のひとつである。船倉内の恐るべき状況とはどのようなものだったのか。人間の詰め込みすぎ、酸素と水分の不足、暗闇、監視兵の暴力。海に出て最初の二日間に、20人以上の捕虜が死んでいる。 戦争の狂気のさなか、航空母艦ホーネットから飛び立った米軍機数機が、12月14日、捕虜輸送中としるしをつけない鴨緑丸を爆撃しはじめた。さらに一日の航海の後、12月15日の午後、船はついに水深80フィートの海底に没した。 300人余りの捕虜が船と共に沈んだ。上甲板には日本人婦女子、日本軍将兵、他の沈没日本船の生存者1,500人余りがいた。彼らの多数も苦しみ死んだのである。 鴨緑丸で命を落とした人々の遺骸は地獄船と共に、今日もこの美しい海にしずんでいる。しかし私たちは彼らの魂が、神のいますとこしえの天上にあげられていると信じる。 不幸なことだが、鴨緑丸は何十隻という日本軍地獄船の一隻にすぎない。第二次大戦中に、10万人を超す男女が様々な地獄船の船倉にいれられ、その多くは過酷きわまる状況のうちに、アジア各地に送られた。 死者の内訳はアメリカ人が4,000人以上、英国、オランダ、オーストラリア、東インド、その他の国籍の不運な人びとが数千人である。死者と被災者の正確な数を把握することさえ今日、できないままである。 1,300人余りの鴨緑丸生存者は、100フィート四方の元のテニスコートに追い込まれ、そこでも暴力的な扱いが続いた。一人の海兵隊員は傷口から入った菌で壊疽にかかった片腕を食器用ナイフで切断された後、死亡した。負傷により、天日にさらされた状況で、また飢えで、多くの捕虜が死んだ。そののち、別の地獄船に移されたものの、海上で死んだり、再度の悲惨な体験をして船と共に海底に沈んだりした。多数の捕虜たちが、自分のであった試練のうちで、地獄船が最もひどい体験だったと言う。彼らのなめた辛酸を、全て詳細に知ることはできない。しかし、彼らの忍耐、暗黒の日々のなかで、心意気を失わなかった精神力は、今日も私たちに大きなインスピレーションを与える。 戦争は地獄という事実を、この時期の出来事の多くが証拠だてている。平和を守るためになにがなされたかを決して忘れず、生あるものは生きなくてはならない。他者が生きるため自分の命で代価を払ったもの全てにこの記念碑を捧げる。これほどのことをしてくれた多数のひとたちに、生ある私たちがふさわしくなれるように祈る。
ヘンリー・モファット・ナイジェル
は、ジョン・J・ナイジェル・ジュニア陸軍少佐の息子 ジョン・J・ナイジェル・ジュニア陸軍少佐
1940年6月、米陸軍歩兵45隊、F中隊長
フィリピン防衛戦中に少佐に昇進、パーカー少将補佐官、 1944年12月14/15日、フィリピンのスービック湾で沈む鴨緑丸 船上で、最後の姿が目撃される。
勲章:シルバー・スター、ブロンズ・スター、パープル・ハート
ジョンの親友で捕虜仲間だった”ゼロ”ウイルソン大佐(ウエストポイント1924年卒業)によれば、「ジョンはどんな時でも、ウエストポイント卒業生として、プロの兵士として、そして紳士として模範を示した。彼は決してユーモアのセンスを失うことなく、私達の境遇に思想的・楽観的な見方をとっていた」という。
息子:
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