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奉天捕虜収容所
多くの捕虜は満州工作機械(MKK)で働かされ、他の捕虜は皮革・繊維・鉄工・木工などの工場で使役された。 1944年12月7日、B-29爆撃機から投下された爆弾のうち2発が収容所敷地内に落ち、19人の捕虜が死亡した。 1945年8月16日、米OSS(諜報部隊)の6人のチームが、捕虜収容所を解放するために奉天にパラシュート降下した。数日後、ソ連軍も奉天に入り、捕虜の避難を助けた。OSSチームの2人は、奉天から北東に約200キロのHsian (現在の吉林省遼源市の一部)に収容されていた連合軍高級将校も救出した。 半世紀近くの間、奉天捕虜収容所の歴史は世界に、そして奉天(現在は瀋陽)市民にさえ、ほとんど知られることはなかった。しかし近年、何人かの研究者・市民活動家の努力が、収容所跡地の発見、その保存、そしてこの知られざる日本軍捕虜収容所で何が起こったのかに関して人々の興味を喚起することに、貢献した。 この数年、瀋陽市と遼寧省政府は、中国政府からの支援を受け、約6億円をかけて収容所跡地を歴史博物館にするプロジェクトに取り組んでいる。
奉天捕虜収容所で何が起こったのか
在瀋陽米国領事館、広報官のシンシア・カプレス氏がまとめた奉天捕虜収容所時系列 当時の写真
開放
中国人歴史家 ( Floyd County Hesperian-Beacon June 7, 2007 からの抜粋:後半部)
「収容所のあった場所を探そうと調査を始めたのですが、何一つ記録を見つけることができなかったのです。」とヤン・ジンは言う。「私は興味をそそられ、どうしてそうなのだろうと不思議に思いました。」 今や瀋陽は大都会で、最初は、捕虜収容所が消滅してしまったか、高層アパートにとって代わられたかのようだった。 ヤン・ジンは、収容所を探し始めた。「このあたりではないかと見当をつけた場所に立ち寄り、老人に、収容所のことを何か知らないかと、尋ねてみました。彼はすぐ、教えてくれました。」 ヤン・ジンによると、収容所は”丸見え”の状態過ぎてかえって分からなかったのだそうだ。「まわりには大きなビルが立ち並び、それらに比べると、とても小さく見えました。」
ヤン・ジンは歴史家として作家として、収容所の物語は知られなければならないと、感じた。「私は、この歴史を人々に知らせる必要があると思いました。こんな風に忘れ去られていてはいけない。歴史は失われてはならない。」
彼は、2003年に奉天捕虜収容所に関して中国で初めて出版された著書
Mukden Nirvana
の著者である。現在は、瀋陽大学「奉天連合軍捕虜収容所研究」の主任・教授である。
ヤン氏は、収容所跡地を訪れる元捕虜の案内を続けている。またフィールド調査を通して、2件の捕虜逃亡事件にまつわる謎を解明し、奉天上空で撃墜されたB-29搭乗員への追悼エッセイも書いている。
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The unforgettable B-29s: a tribute リンダ・ゲッツ・ホームズ氏は最近、Guests of the Emperor: The Secret of History of Japan’s Mukden POW Camp 「天皇の客:日本軍奉天捕虜収容所の知られざる歴史」(Naval Institute Press, 2010) を出版した。彼女は、第二次大戦時の戦争犯罪に関する記録を公開する米政府機関(IWG)のアドバイザーとして、最初に任命された太平洋戦争歴史家である。他に、Unjust Enrichment: American POWs under the Rising Sun と 4000 bowls of Rice: A Prisoner of War Comes Home の著書がある。 この著書には、過酷な体験を語った多くの元捕虜の証言が引用されている。
Elvin Davis
一等兵は、戦争犯罪捜査官に次のように証言した。 Eddy Laurseng二等兵は、奉天での殴打に関して次のように表現している。 「アメリカ人捕虜が受けた殴打は、日本人将校や彼らから命じられた兵士たちから、棒で頭や肩を殴られることでした。拷問は、アメリカ人捕虜を寒い季節に充分な衣服や毛布を与えずに独房に何日も監禁することや、毎日MKK工場から帰った時に、裸や裸に近い状態で寒い戸外に起立させて身体検査をすることや、独房の中や外でアメリカ人捕虜に腕立て伏せをさせ、もうできなくなると彼の腹に軍刀を当て、もっとさせたりすることでした。」 しかしこの本で最も重要な箇所は、奉天捕虜収容所の捕虜が、旧日本軍の生物化学兵器研究開発機関であった731部隊によって生体実験されていた、という記述であろう。ホームズ氏は次のように記述している。
日本人医師と捕虜の医師が残した記録、戦後裁判での証言、そして米公文書館が最近公開した機密文書などを基に、奉天捕虜収容所に来た医療関係者の背後関係を、ついに証明することができた。
奉天捕虜に敬意を表して シェリー・ジンブラー氏とスザンヌ夫人は、夫妻が居住するニューヨーク州キングストン市で、2005年、07年、09年の3回、奉天捕虜収容所から生還した捕虜の会を主催した。スザンヌ夫人の大叔父のAbe Garfinkel大佐は、バターン死の行進に生き残り、奉天収容所に送られた。
彼は、POWs of Japanese, Rescued という回想記を書いており、その抜粋はこのサイトで読むことができる。 (奉天捕虜ボブ・ブラウン、リース氏、ヤン氏)
多くの元奉天捕虜と友人になり、何年もかけて彼らにインタビューした後、ジンブラー氏は2008年、Undaunted Valor, The Men of Mukden... In Their Own Words という著書を出版した。彼は2010年6月に逝去したが、スザンヌ夫人は亡き夫の仕事を、愛による奉仕活動であったと語っている。
ビデオ: ジンブラー氏を追悼する(© Daily Freeman) 活動家夫妻
2000年に引退したウォン氏は、両親が生まれその地の大学で学んだ奉天の捕虜収容所の歴史調査に、深く関わり始めた。元図書館司書のパット夫人と一緒に、娘が住む北京を訪ねるときは、汽車に乗って瀋陽まで足を延ばし、手がかりを求めて調べ歩くものだった。そこで彼は中国人歴史家や地元の人々に出会ったが、彼らは、瀋陽で起こったことを世界に知ってもらうため、そして旧日本軍に苦しめられたのは中国人ばかりでないことを中国の人々に知らせるため、奉天捕虜収容所に収監された捕虜に敬意を表する博物館を建設したいと願っていた。 ウォン氏は米公文書館で何百時間もの時間を費やした。そこの職員が彼の奉天捕虜収容所への関心を知るようになり、参考になる資料を見せてくれるようになった。彼と友人は、米公文書館で見つけた3千ページもの文書を瀋陽の米領事館に送ったが、それらは領事館のシンシア・カプレス氏によって精査され、中国人関係者に渡された。歴史博物館に使用された多くの資料は、それらの文書に基づいたものだった。 ウォン氏と友人は、奉天捕虜とその家族のために、瀋陽訪問の旅を何度か企画した。これまで彼らは、合計13人の元奉天収容所捕虜(企画者側が全費用持ちの招待)と80人あまりの家族・友人(自費負担)を瀋陽に引率した。 ウォン氏とパット夫人はその後、Mukden POW Remembrance Society (奉天捕虜伝承協会) という団体を設立した。そのミッションステートメントは以下の通り。
Mukden POWs Remembrance Society
は、中国瀋陽にあった奉天捕虜収容所に収容された連合軍捕虜の勇気と犠牲に関する教育を通して、人々の間にコミュニケーションと理解を促進するために、存在する。元捕虜たちから情報を集め、将来の研究のためにそれらを保存し他の人々とそれを共有することで、将来の世代が戦争ではなく平和を目指すことを願う。協会はその他に、元捕虜やその次世代そして関心を持つ人々を、収容所跡地に建設中の歴史博物館に引率したり、さらなる情報収集を支援したり、若い世代への教育活動を支援するなどの活動をしていく。 米元捕虜、収容所での生活を回想 (2007年5月)ロイター記事
奉天捕虜収容所博物館はまた、アメリカに巡回展示を送り、元捕虜、彼らの次世代、そして奉天捕虜収容所に関心を持つ多くの人々が、それを見学した 最後に : 「よい戦争というものは無いが、悪い歴史というものも無い」
(戦後10年めに東京に大気元軍医を訪ねたボブ・ブラウン)
しかし彼は、次のようにも書いていた。 私たちは、起こった通りの体験を語るべきなのです。辛いときのことも、ほほえましい出来事があったときのことも…。 さまざまな苦労にも拘らず、ユーモラスな思い出もあったし、日本軍の戦争遂行を私たちのサボタージュで邪魔した思い出もあったのです。思いやりを示してくれた日本人も何人かいました。これらの全てが、物語の全体そして私が語りたい物語を形成しているのです。つまり、起こった通りの生と死の物語です。
願わくは、戦時中日本国内に100箇所以上あった捕虜収容所、そして奉天のような国外にあった捕虜収容所で、どのようなことが起こったのか、そしてそこに収容された捕虜たちの経験を学ぶために、同様の努力が多くの日本人によってなされて欲しい。 以下はヤン・ジン氏が望むことである。 先ず何よりも、日本政府と企業には、奉天収容所に関係する全ての歴史文書と資料を公開して欲しいと思います。少なくとも、学術的研究と中国の学者には公開して欲しいです。 私は長い間、日本の防衛庁の戦史研究所を訪問したいと、願ってきました。私の研究訪問を許可してもらえるか、何度か手紙を書いてみたのですが、よい返事はもらえませんでした。 基本的に、現在の研究の殆どは、オーラルヒストリーと片面的証言に拠っています。ですから、日本側からの資料は、この歴史をより理解するのに、或いは何か誤解があればそれを取り除くことに、確実に役立つのです。 第二に、個人的な希望として、私は奉天収容所に居た日本人を訪問してインタビューできたら、と思います。このことも、全ての関係者のストーリーを聞くという努力の一環です。学術的に、彼らのオーラルヒストリーは(元捕虜側のものと)同様に重要だからです。でもこれは、彼らが私のインタビュー依頼を受けてくれるかにかかっているでしょう。私の理解では、奉天収容所に居た日本人を見つけるのは非常に困難なようです。 最後に私は、若い世代の第二次大戦の歴史への理解をさらに深めるため、奉天捕虜収容所に関する歴史認識が、教育課程に導入されて欲しいと願っています。 米国政府 Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Records, Interagency Working Group による「ケース・スタディ:奉天のアメリカ人捕虜」は、Researching Japanese War Crimes Records: Introductory Essay のページ84-89で読める。
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