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The New York Times
寄稿意見記事 ワシントン 87歳になる第二次大戦からの帰還兵レスター・テニーは、日本の首相との面談と、彼と他の米捕虜が日本の地で味わった苦難と苦痛に対する謝罪を求めて、今日、日本に旅立つ予定だ。国務省がこの問題で取っている立場を始めとしてさまざまな理由により、彼がそのような謝罪を受ける可能性は低い。 1940年の秋、テニー氏はイリノイ州兵隊第192戦車大隊B中隊に入隊したが、その隊は一年後にフィリピンに派遣された。 1941年12月に日本軍がフィリピンを攻撃したとき、米比軍は応戦準備ができていなかった。日本軍による包囲でバターン半島に3ヶ月閉じ込められたテニー氏と彼の戦友は、飢えと病に苦しんだ。1942年4月9日、米軍の指揮官が降服し、100キロのバターン死の行進が始まった。 行進は、灼熱の太陽が照りつける中、食事も水も医療手当ても休憩も与えられず、4日から7日(ある者にとっては14日も)続いた。日本人の監視兵は、米兵とフィリピン兵を思うに任せて殴り、首を刎ね、銃剣で突き刺し、生き埋めにし、撃った。 サンフェルナンドの町にたどり着いた後、捕虜たちは貨車に詰め込まれたが、あまりにもきつく押し込まれたために身動きができないほどだった。灼熱の貨車の中で兵士たちは空気を求めて喘ぎ、立ったまま死んでいった。4時間におよぶ貨車での移送に生き残った者は、オドネル収容所に向けてさらなる10キロを、よろめきながら歩かなければならなかった。 しかしテニー氏の苦難は、始まったばかりだった。「地獄船」につめ込まれた彼と捕虜仲間は、三井・三菱・川崎・日本製鉄などが所有する鉱山や工場や埠頭で働くために、日本に送られた。殴打や他の虐待は相変わらず続いた。食料と薬品は乏しく、赤十字からの食糧慰問箱が捕虜に届くことは決してなかった。テニー氏は、日本人炭鉱夫が入るのを拒むほど危険な三井炭鉱で、2年以上の労働に従事した。第二次大戦中に日本に捕われた連合軍捕虜の死亡率は27%で、ドイツに捕われた英・米兵の死亡率約4%を大きく上回っている。 戦争が終結して以来、日本政府は、補償或いは謝罪を求める元米捕虜の努力を、無視するか否定してきた。日本企業は、捕虜の強制労働に関する歴史資料を隠蔽しようとしてきた。2005年には、日本の最も著名な雑誌の一つである『文芸春秋』誌が、バターン死の行進は報道されたほどに過酷ではなかったとするばかりか、生存者の証言は「死の行進という虐待行為が存在したことを前提としてとられた調書」である、と主張する記事を掲載した。 珍しいことに、日本の国会議員は今、第二次大戦の捕虜に関連する法案の提出を準備している。しかしそれは、連合軍捕虜を虐待したことにより戦犯として有罪となった韓国人や他の日本人以外の収容所監視員に、未払い賃金と年金を提供しようとするものである。 しかしある意味でもっと問題なのは、元捕虜が米国と日本の裁判所に起こした訴訟に対する、米国政府の姿勢である。多くの訴訟において国務省と司法省は、連合国と日本の間の1951年のサンフランシスコ講和条約が全ての補償請求権を放棄した、とする日本企業の主張を支持してきた。国務省はさらに、米政府或いは日本政府による補償を求める米議会での立法に反対するため、日本大使館と一緒に動いたこともあった。 第二次大戦中に日本軍の捕虜となったオーストラリア、イギリス、そしてオランダ人は、日本の首相から既に謝罪を受け、そして癒し・理解・教育を促すための日本訪問の招待を受けてきた。彼らの国の政府も、彼らに補償を支払った。
「米国バターン・コレヒドール防衛兵の会」という退役軍人会の現代表、そして恐らくは最後の代表となるレスター・テニーが唯一求めているのは、これと同じこと― つまり謝罪と、この米・日関係の恐ろしい一章に名誉ある終止符を打つこと― なのだ。そして彼は、これまで日本政府高官との面談を求める彼の要請を支援することのなかった米政府が、今度こそ彼を見捨てないよう願っている。 * ミンディ・カトラーは、アジア地域の安全保障を専門とするリサーチセンター、アジア・ポリシー・ポイントの所長
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