兄は僕のヒーロー: エドワード・マリコースキー著
この本は、著者が戦後すぐ兄から聞いた体験談の記憶、そして1993年に行ったインタビューを元に書かれたものです。また著者は、兄の体験を辿るため、彼が戦時中つけていた日記も参考にしています。)
第19章
ビリビッド刑務所は、日本に送られる捕虜の出発地点でした。彼らはここで、厳しい日本への航海に耐えられるか、そして労働に適しているかを、検査されたのです。
広島を過ぎて30マイルほどで、汽車は、瀬戸内海に面する人口約6万人の工業都市尾道に停まりました。ここで、フランを含む100人の捕虜が日本人のために働く労働者として汽車から降ろされました。 フランの手書きのカレンダーの1944年9月7日は、塗りつぶされています。それは、彼らが尾道に着いた日でした。彼らは最初の晩をそこで過ごし、翌日に向島の小さな島に渡り始めました。向島の捕虜収容所は、広島第4分所として知られるようになりました。
島は、沖合い僅か数百メートルのところにありました。フランは、一度に12人か13人ずつ小さなタグボートで運ばれたことを、記憶しています。これは日本人を褒めるべきだと思いますが、彼らは最初の一週間の多くを、捕虜たちに準備させたり衣服を支給したりすることに費やしたに違いありません。「南京袋に驚くほどよく似た作業服、木綿のシャツ1枚、冬夏それぞれ1着ずつの日本陸軍ユニフォーム、地下足袋1足、そして2足のソックスを支給された。仕事中に陸軍ユニフォームを着ることは許されなかった。フィリピンで貰っていた赤十字の靴を履くことも許されなかった。」
彼らはまた、グループと個別の写真を撮られました。フランは、個別写真を何とか入手し、戦後持ち帰ることができました。
「毎朝点呼の後、捕虜は整列して(日立造船の)工場に向かって行進し、夜は同じようにして帰ってきました。子供達が汚い言葉で彼らを罵ったり、石や棒を投げつけたりしました。彼らは造船所で、船を洗ったり、木材や物資を担いだり、溶接・鍛冶作業や一般的な修理作業に従事しました。労働環境は劣悪で、寒い雨の中、危険な場所で労働を強いられる彼らの日々はつらいものでした。」 次に赤く印されたフランのカレンダーの日は1944年10月7日です。その日の日記には、「10月7日、向島、5キロの赤十字慰問箱を9人で分ける。」という記載があります。 もう一つの“赤い日”は10月17日ですが、上から消されています。日記には「10月17日、ドイツが降伏したとい う噂?(後に萎んでしまった)」と記述されていました。多くの噂は本当ではなかったのですが、捕虜にとっては命綱の役割を果たしていたのです。終戦の噂と共に、捕虜たちの期待は膨らんでいきました。他の噂は、捕虜仲間の覇気を高めるためにでっち上げられた期待の表明だったかもしれません。フランの日記には、こんなリストが含まれていました。 捕虜たちが戦況をどの程度把握していたのかを知ることは難しいです。どの収容所にも噂の出所がありましたが、敵国日本の国内でフェンスに囲まれた暮らしをしている捕虜たちは、言葉も分からず、何が起こっているのかを見極める方法は殆んど無かったようです。フランと捕虜仲間に、それまでの3年間のどんな希望にも勝る希望を与えることになる確実な兆候が、ある日やってきました。フランは、その日の日付を覚えていませんでした。たぶん1945年4月のある日だっただろうと推測していました。その日、向島の製材所の敷地に立っていると、遠くから飛行機のエンジンのブーンという音が聞こえてきました。雲が低く垂れ込めていて、何も見えませんでした。その音は次第に大きくなり、15分位過ぎてそれが轟音のように響き渡る頃、雲の切れ目が現れました。米飛行機が後から後から波のように上空を飛び抜けて行った様子を説明する彼は、50年以上を経た後でも、感極まって声を詰まらせるのでした。
第25章 捕虜は大量の休暇を蓄えていたので、充分健康であると見なされた者は、帰宅が許されました。フランの最初の帰宅は恐らく1945年の11月だったと思います。両親のフランクとバーサが最後に彼らの長男を見た時から、5年半近くもの月日が流れていました。彼らの祈りが通じたのです。 次兄のボブと私は、その時家にいませんでした。ボブは1942年に高校を卒業すると同時に通常の海軍に入隊し、ヴァージニア州のベルヴォア基地の海軍病院に衛生兵として赴任していました。私は1945年8月3日に海軍に入隊したのですが、突然の終戦で、私の現役勤務は1945年10月19日まで延期されていました。それで当時は、ヴァージニア州のペリー基地で新兵訓練を受けていたのです。 1945年の12月のある日曜日、私たち海軍新兵は、ウィリアム&メアリー大学までバスで旅行するため、ペリー基地から初めて外出しました。ペリー基地チームと近くの陸軍基地チームの間で戦われるフットボール試合の応援をするためでした。試合の途中で雪が降り始めました。ペリー基地チームの勝利で試合が終わった後、私たちは基地に向けて帰路に着きました。16人の新兵が住む小さなかまぼこ兵舎だった私の”家”に向かって行くと、1人の水兵と1人の兵士が私の兵舎の前に立っているのが見えました。彼らの帽子と肩の上には1インチ以上の雪が積もっていました。何千人もの水兵がいるこの基地で、この二人が私に会うために待っているなどとは、私は夢にも思いませんでした。最初の手がかりは、兵士の胸に付けられたかなりの本数のリボンと袖に付けられた金色の年功袖章でした。それは、戦時中に海外に派兵されていた6ヶ月毎に一本与えられるのです。 私は最初にボブに気付きました。彼が休暇で帰って来たとき、私は家で会っていました。そうすると兵士の方はフランに違いありません。でもそんなことがあり得るでしょうか。その男性は80キロ以上はあったでしょう。私は解放された捕虜の写真を見ていました。私は彼があまりにも丈夫そうに見えるのでびっくりしました。でも、目とふさふさした眉毛は間違いなく彼のものでした。私とフランが最後に会ってから、5年半が過ぎていました。彼が私を見た時、私だと分かったどうか、定かではありません。彼が最後に私を見た時、私は13歳で、40キロそこそこしかありませんでした。私の口から最初に出てきた言葉は、「どうして雪の中で立っていたの。兵舎のドアは開いてたんだよ。」というものでした。フランは答えました。「ここは君の家だ。招待されなければ、僕達は入ったりしないよ。」 彼らにとって、雪の中で待っているなどどいうことは、たいしたことではなかったのです。フランは、彼に会えた私の顔に、嬉々とした喜びが満ち溢れていたのを見ることができたに違いありません。私の長兄、子供時代のヒーローが帰ってきたのです。そして私にとって、今やその言葉が持つあらゆる意味において、彼は真のヒーローでした。 訪問は短いものでしたが、彼らはそれから一ヶ月もしないうちに、私が新兵訓練を終えて休暇で帰省する時、自分達も帰宅すると言いました。1946年1月10日には、家族全員が再び会えることになったのです。
尾道に着いた彼は、フェリーに乗ってすぐ近くの向島まで渡りました。(私の手元には今)彼が、強制労働を課せられていた製材所を訪問できたのか、或いはそれがまだ存在していたのかを示すものはありません。彼が写真を入れていた幾つかの封筒の1つに、「向島への旅」と書いてあるだけです。その中にあったのは、大きなクレーンが見える海辺の風景を写した何枚かのぼんやりした写真でした。それが、かつて日立の造船所で1年の収容生活を送った場所に、彼が最も近づき得た時だったのだろうと、推測します。
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本購入の問い合わせ:
向島捕虜のためのボランティア活動 エドワード・マリコースキーさんはご親切に、彼の著書 『A Brother’s Hero』を一冊私に下さった。この本は、日本が捕虜たちに対して犯した数々の残虐行為を考えさせる。また、古い世代の責務は、若い世代に戦争の悪を知ってもらうため、歴史を伝えていくことだと、認識させられた。これ以外に、平和を構築し維持していく方法はあるだろうか。
著者は、彼の兄が捕虜体験を語ることはあまりなかったと書いている。私の父もシベリアで2年間捕虜だった。彼はその地での過酷な強制労働と抑留に生き残った。幸運にも帰国したが、自分の戦争経験をどうしても語ろうとしなかった。父も、この捕虜と同様に抑留中おびただしい数の兵士の無残な死を見たであろう。彼らの体験は、それを語るにはあまりにも衝撃的なものだったのだろうと、想像する。 しかしこの本には、思い出深いエピソードや写真も出てくる。兄弟で仲良く近くの川に魚釣りに行った記述や写真は、私の幼児期を思い出させ、なつかしさを引き起こしてくれるが、これは一方では戦争の悲哀を一層深めていく。
私は1992年、元日本軍英捕虜が三重県入鹿にある捕虜収容所跡地を訪ねるという記事を読んだ。その訪問は、ロンドンに住む恵子・ホームズさんという日本女性が計画したものだった。記事には、訪問団代表の元捕虜リチャード・ホワイト氏の「村人はよい人達だった。彼らはみんな平和を願っていた。私は彼らに全く悪感情は抱いていない」という言葉が紹介されていた。その記事に私は深く印象付けられた。 そして1995年、今度は別のイギリス人元捕虜のグループが広島を訪問することを私は耳にした。私はボランティアで彼らの訪問を手伝い、広島地域を案内をした。私の家から1時間ほどの向島にもお連れした。 彼らは観光をした後、非常にいい印象を持って広島を去った。東京行きの新幹線が離れる時、窓から手を振ってくれた彼らの笑顔を、今でも思い出すことができる。 15年前、私は広島のある機械メーカーを退職した時、何か英語の技能を使った仕事につきたいと思っていた。機械技術者として働いていた時、外国の顧客、特にアジア諸国からの人たちと英語を話す機会が沢山あった。しかし私が退職した頃は不況のため新しい仕事を見つけることは難しかった。それで、イギリスの元捕虜の方たちを助けるボランティアの仕事に、とてもやりがいを感じた。 彼らはイギリスに帰国後、ほとんどの者が次のような親切な言葉を送ってきた。「日本への旅は、終戦以来、自分の中に取り付いていた亡霊の多くを鎮めるのに役立った。私は生きて、我々が再び友人になれる日を迎えてうれしい。」 彼らからのこれらの言葉を読んだ時、このボランティア活動ほど有意義なことはないと感じ、それが動機となり、私は今日まで捕虜のためのボランティアを続けてきた。 2002年には、日英「平和と友好の記念碑」と向島捕虜収容所の壁に埋め込むメモリアルプレートの建設プロジェクトを手伝った。
私は、向島の捕虜だったJohn G. Medcalf氏のお嬢さんPaula Medcalf さんが、私たちが建設したメモリアルプレートの前で挨拶する姿を見て、深い感動を覚えた。そのプレートには、以下の文章が刻まれている。
メモリアルプレートには、この収容所で亡くなった23名の英国人捕虜の名前も刻まれている。 (文章は2002年当時に知りえた情報を元に書かれた。その後、第二次大戦時の日本には130近くの捕虜収容所があったこと、向島捕虜収容所で1人の米捕虜も亡くなっていたことがわかった。)
私の知る限り、アメリカの元捕虜は向島を訪問していない。この著書が、アメリカの元捕虜や家族に向島訪問を奨励することを期待している。彼らの訪問が有意義で思い出深いものとなるよう、ボランティアでお手伝いできたら光栄である。
*小林晧志氏は、「アガペ日英交流会 広島代表」を務め、「日英友好のモニュメントを建てる会」の会員でした。 |