『文芸春秋』誌に掲載された「バターン死の行進」に関する記事について

伊吹由歌子

日本で最大の読者数を持つ 『文芸春秋』 200512月号に 「バターン死の行進女一人で踏破」 というルポ記事が載った。筆者の笹幸恵は30歳の女性ジャーナリストで、「だまし討ち」(パールハーバー)と「捕虜虐待」(バターン)の2つの事件が、米軍による「本土空襲・原爆投下という女性・子供を含む非戦闘員の無差別殺戮」正当化の根拠と見る。真珠湾攻撃に比べるとバターンに関する資料は非常に少なく、実際の行程を歩き抜いたジャーナリストもほとんどいないとして、自から「死の行進」の現場を踏破して書かれた記事である。 

バターン半島のマリヴェレスからサンフェルナンドの駅舎まで4日プラス予備1日の計画を立てた筆者は、「FAME」(Filipino American Memorial Endowment)が管理する道標に沿って軽装で歩くことにする。当時の捕虜たちの体調を再現することは難しいとしながらも、筆者は、直前に12日間のブーゲンビル島慰霊巡拝団に同行して体調を崩しはからずも物の食べられない状態が続いていたという。

10月13日行進開始。乾季の4月と違って10月は雨季だが、スコールがあったのは夜だけで連日昼過ぎには38度を超え、3日目には39度だった。筆者が調べた行進距離の記録はまちまちで、60キロを4−5日で歩いたというのが、最も一般的であったという。「日本軍による組織的残虐行為だったのか」を大きなテーマとして、1日ごとの日記形式で自分の行進を記録。ルバオ付近の87キロ地点で道標は終わり、その先は直線の新道をゆくことになる。彼女は全行程を4日で歩いて、それが102キロであることを確認した。

「捕虜たちは自分たちの行き先を知らされていなかった。目的地がはっきりしなければ、この行進は辛いものであっただろう。永遠に続くような錯覚さえ覚える。」レスター・テニーの著書「バターン:遠い道のりの先に」から、「目標を定めて歩く」を実行し、功を奏したという。

筆者War Crimes Officeの調書記録から、捕虜の証言を紹介する。「(日本兵は)我々がどんな水源からでも水を得ようとするのを禁じ、動物のように追い立てた」 ただし、これら記録のすべてに信憑性あるのか、筆者は疑念も挟む。「死の行進という虐待行為が存在したことを前提としてとられた調書」であり、「戦争裁判では反証を行っても公正に取り扱われないため、事実関係が確定できない。」のだという。

「死の行進」は自分でも歩ける距離だったとして、筆者は、移送計画そのものはさして無理とは言えず、出来る限りの最短距離をとっており、「組織的な虐待という指弾はあたらない」と書く。多くの死者を出したことは 、マラリヤなど捕虜たちがかかっていた病気がむしろ最大の原因ではないか、と問いかけている。「もちろんそのことで「死の行進」を正当化できるものではないが、少なくともすべてが日本軍側の責任であったかのような捉え方はあたらない。」当時、日本軍にとって最重要の課題は、コレヒドール島攻略であり、そのさなかでの捕虜輸送、平和な日常のなかで人道主義を唱えるのとは次元が違うという。

最後に筆者は、ギルバート諸島ナウル島で捕虜となった日本兵に対し、豪州軍による「死の行進」の事実があったと紹介する。ソロモン諸島北端のブーゲンビル島上陸の後、日本兵捕虜の水筒の水を捨てさせた後に、炎天下30キロをタロキナ収容所まで行進させ、川があってもかき回して泥水にしたという。

「死の行進」を脱走した捕虜の報告を受けてマッカーサーは「適当な機会に裁きを求めることは、今後の私の聖なる義務」と報復を誓っている、と筆者は書き、「死の行進」はバールハーバーと 並び「米国中の憎悪をかきたてるスローガンとなった。」と続ける。

相互の憎しみの応酬で深まる争いの構図を現在のイラク戦争にも引きつつ、筆者は、「憎悪の応酬を防ぐものは事実の検証」であるとし、「事実を検証すれば、一方的な悪など存在しないことが見えてくる。」と締めくくっている。