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広島で米捕虜12名が原爆により命を落とした事実はあまり知られていない。被爆者であるひとりの日本人が地道な調査と関係者との交流により知り得た結果を、このほど一冊の本にした。(光人社 2008年8月11日発行 2,000円) 以下にその概要を紹介する。
著者 森重昭さんは8歳のとき、自宅のある己斐町旭山神社前の小さな橋のうえで被爆した。爆心地から2.5kmほど、子供だった彼は爆風で浅い川中へ吹き飛ばされた。当時夏休みはなく学校へ授業を受けにゆく途中だった。己斐小学校に医師がきて学校は被爆者たちで一杯となり、その夜は阿鼻叫喚の地獄絵であったが翌朝は静かになった。全員が息絶えたのである。校庭で被爆死体を焼くのを目撃した。「広島原爆戦災史( 一方、NHKは1974年から75年を第一回、2000年を第2回として、一般から原爆体験をモチーフとする「原爆の絵」を公募した。森さんは第一回の2千数百枚すべてを丹念に見てメモをとったが、関心ある己斐以外に、まったく別の発見があった。米捕虜に関する絵が20点ほどあったのである。 広島には司令部、武器庫、軍需産業などがあり西日本有数の軍都であったが、捕虜収容所はなく、原爆投下候補の都市として小倉、長崎とならび広島が最終の3つに挙げられる大きな理由であった。しかし、実際には12名の米捕虜がいて被爆死した。1945年7月28日、軍港のあった広島県呉沖で日米最後の海戦が行われた。太平洋戦線で活躍した戦艦「榛名」および「利根」が撃沈され、米側もB24型爆撃機2機(乗員9名のローンサム・レディー号、乗員11名のタロア号)および艦載機20機が撃墜された。パラシュート降下や救命艇で海上に脱出し、日本側に拘留された米兵たちはどうなったのか。
B-24爆撃機ローンサム・レディー号のカートライト機長は、6人の部下を原爆で失いながら自身は東京で訊問されていて被爆を免れた。戦後、農学博士となったカートライト氏は学会で来日し一度は広島を訪れたものの、知人もなく、逃げるように立ち去った経験がある。村中氏や森さんと数年にわたり手紙で交流し、墜落した乗機の破片を村人たちが送ってくれたりして会いたい気持ちがつのり、1999年に夫人、子息、爆撃機退役軍人会のマット・クロフォード会長とともに広島を訪れた。森さんや村中氏の案内で捕虜たちが被爆した司令部あとに森さんが設置した記念碑など関係の地に立ち、パラシュート降下した乗員たちをとり囲んだ地元民や、拘留された彼らの訊問をした人々と
2005年夏、私は広島で森さんのお世話になった。ロンドンの帝国戦争博物館と英国宝くじ協会が第2次大戦60周年を記念して高校生対象のプロジェクト「Their
Past, Your Future」を主催、エッセイ・コンテスト優勝7校の生徒たちが欧州、アジアの元戦場へ旅をした。オックスフォード市チェイニー高校からは、24人の学生と教師4名が、博物館員4名、宝くじ協会スタッフ1名同行でタイと日本へ派遣された。一行のアテンドを、英元捕虜ビル・ローズ氏と子息のグラハム&敬子夫妻、ローズ氏がダム建設に使役された
「あとがき」に森さんはこう書く:
私は原爆で親しい者を失った数少ない米国人の一人です。広島の人たちの痛みは私の痛みでもあります。 長崎原爆では9名の英・蘭捕虜が被爆死し、彼らの氏名・死亡日も4名の写真とともに掲載されている。 新聞記事紹介と森氏のコメント 本稿を準備中の8月17日、Pittsburgh Post-Gazette紙に以下の記事が出た:http://www.post-gazette.com/pg/08230/904953-54.stm 森さんに送ったところ次のコメントをいただき、同氏と関係者への感謝とともにここに掲載する:
原爆で命を落とした米兵への関心をこころから有難く思います。司令部跡の記念碑は1998年に除幕式をしました。銘板に刻む言葉をカートライトさんにお願いしたところ、3日間、寝る間も惜しんで考えてくださり、後世に残るものだからと、当時ミシガン州立大教授・日系のポール・サトー教授と私の3人で英文と和訳を練りました。邦文は現在、展示はしておらずこのウェブサイト上で掲載されるのは大変嬉しいことです。銘板はコンピュータでレイアウトされ、被爆後の司令部跡写真(川本俊雄氏撮影・松重美人氏提供)にB24機クルー2組の写真を配しています。資金調達に私も半年、夜警のアルバイトをしたり、日米関係者にも献金をいただきました。
記事に2,3の誤りがあり訂正します。広島には中国憲兵隊本部があり、国立広島平和祈念館の学芸員だった荒谷 茂氏は、2年まえに同館を離れ
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