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元米捕虜 レイモンド・C・ハイムバック氏の日本再訪
レイモンド・C ハイムバックさん :元捕虜 : 退役空軍少佐
成田空港でレイさんと会う :5月14日(木曜日)
四日市へ:レイさんの2冊の著書:石原産業を訪問:5月15日(金曜日) レイさんの望みのひとつは、昼食に収容所へ戻るので四往復のたびに敬礼をしなくてはならなかった神社を見ることだった。位置は変わっていたが小さな神社はいまもあった。慰霊碑では、金属板の碑に日英両語で「人がその仲間たちのために命を捨てるほど気高い愛はない。自由と民主主義のために第二次大戦で戦いかつ死んだ人々に捧げる。」そして傍らには、日本語で「これは第二次対戦中に不幸にもこの地で死去した占領軍兵士の墓碑である。私たちは平和への熱望の花束でもって彼らの霊魂が永遠に安らかに眠れるようにしましょう。」レイさんは花束を備え挙手の礼をした。
当時の桟橋が残る港付近で。三重県歴史教育者協議会 山口委員長と話すレイさん 隣に伊勢湾台風の社内犠牲者の碑があり、捕虜碑は台風後に建立し直されたと思われるそうだ。工場敷地内をめぐるが建物は全て建て直され、高い煙突ももうなく、一部、埋め立てで広がった部分もある。これだけが戦前からという桟橋が残っていたが、レイさんは港の近くでは働かなかった。神社の前を通るとき班長としてかけた敬礼の号令を、日本軍の軍隊口調ですらすらと身振りとともにやってみせた。「全体止まれ、右向け右、脱帽、敬礼、直れ、着帽、左向け左、前へ進め。」「日本語は上手だけど10語だけだよ。」という彼の語彙には「サンビャク・ハチジュウ・ロクバン(捕虜番号)」「こら、こっち来い」などがある。山口教授とレイさんは食べ物の話をした。「私たちは豆を食べていました。あなたは?」「1日300gの白いご飯とダイコンがちょっと入った味噌汁。ある日、私たち30人の班の班長がご馳走してくれました。日本人の炊事場へ連れて行き、みなにお椀二杯の煮豆をくれたのです。ほんとに助かりましたよ。」 部屋へ戻ると、若者が数人レイさんの話を聞こうと参加した。「民間人は間違うと教えてくれた、兵隊のなかにただ罰する人がいた、それが違いだ」と言う。若者に向かいレイさんは言った。「ユーモアのセンスは大切だよ。苦しい状況になったときは自分を笑えないといけない。そうでないと取り込まれてしまう。」彼はまた2001年、石原産業を相手取って起こそうとした訴訟についても話した。何百という捕虜たちのひとりだったが、彼のケースは議会まで行き、国務省が日米の良い関係を損なわないため、と却下した。「私はただ事実を認めてもらいたかったのです。」3時間があっという間でお礼を言いお別れして駅まで送っていただく。みなさんが温かく、熱心にレイさんの話を聞いて知ろうとしてくださったことに、みな嬉しく感動していた。レイさんが言った。「これは予想もしなかった。」社内報には、戦後3回、親切だった社員に会いにきた捕虜関連の訪問が報じられ、お願いしてコピーを送っていただいた。有難うございました。毎日新聞三重版の5月16日にレイさん訪問記事が掲載された。
静かで肌寒い雨の日。4時間の列車の旅で富山へ向かう。夕方、富山空襲を語り継ぐ会の事務局長の和田雄二郎先生とお会いする。収容所そのものは現在残っていない。富山県には6箇所の捕虜収容所があったが第6を除いては、戦争の末期に2,3ヶ月だけ存在したものだった。
名古屋捕虜収容所第11分所跡へ:5月17日(日曜日) 激しい吹き降りの日となった。第11分所付近の路上では、10人ぐらいの報道陣が待っていて和田氏が訪問者3人を紹介、レイさんは語りかけ、その後質問に答えた。64年たって初めて、昔の場所へ行ってみようか、日本人とあってみようかと思えたという。炉を終日運転するために、1日12時間労働で昼夜兼行で働き、5日ごとに昼と夜が交替するときは、18時間ぶっとおしで働くのだった。夜勤で野菜畑の中の300メートルを歩くとき、捕虜たちは少量を盗んだという彼は、古い工場の3角屋根に見覚えがあるようだという。昔の場所に立ってみてレイさんは言った。「もう、捕虜収容所がなくて嬉しいと思う。戦争は二度とあってはならない。」悪天候のなかを取材してくれた記者たちに感謝し、その午後遅く、地方局2局のニュース番組で印象的に編集された彼の報道が流れた。和田氏は後日、「レイさんの熱さとエネルギーある行動に戦争の事実を覚える努力へ勇気をもらいました」とメールをくださった。 旧日本曹達岩瀬鉄鋼所・現 大平洋ランダム株式会社訪問:5月18日
陽光が戻った。福林先生はレイさんの訪問を願う電話を大平洋ランダムにしてくださった。この会社は戦時中の日本曹達岩瀬鉄鋼所から1949年、1983年の2度の独立を経た企業である。第2次大戦の末、工場は電気溶解炉を使用してマグネシウム、非鉄合金などの生産に携わっていた。急なことだったにも係わらず、この会社でもレイさんの訪問を快く受けてくださった。客室に招じ入れ中島専務、黒坂総務部長が「工場四十年のあゆみ」という1976年、太平洋金属岩瀬工場時代に編纂の社史を見せてくださった。黒坂氏が編集に携わった社史の22ページに十段落ほど75人のオランダ、48人の米、25人の英からなる148人の捕虜の到着が明確に記されている。2名が死亡し、ひとりは事故で、一人は結核・栄養失調による精神錯乱だった。ひとりをレイさんも覚えていた。「彼は米原住民の出身でね、私たちはチーフと呼んでいた。」[ここに記載された数字は全てとても正確です。」と福林先生も太鼓判を押され、黒坂部長はかなりのページ数をコピーしてくださった。 中島常務と昔の話がはずむレイさん
そこを出て、次の建物に入った。中島氏が言われる。「機械は変わっていますが、これと似たものだったのではないでしょうか。」レイさんは同意した。「すっかり同じではないが、このようなものだった。」今はもう使用していない機械だった。しかし、レイさんは言った。「もう十分です。これが見たかったのです。」2時間の楽しい訪問だった。「お時間をとっていただき本当に有難うございました。どうかもう仕事に戻ってください。そしてどうぞお幸せに。」とレイさんが感謝した。お二人は門まで出て、手を振って見送ってくださった。福林先生は京都に、レイさんと私は東京へ。大分お疲れがみえ、翌日はゆっくり過ごすことになる。後日、中島・黒坂両氏は今回の訪問を日米間の架け橋として評価してくださった。 レイさんの作業した建物の前で
レイさん歓迎の夕食会 :5月19日 10人ほどがレイさんを囲み、ホテルのラウンジでくつろいだ夕食会をもった。藤田議員も参加してくださり、研究者,ジャーナリスト、市民活動家など連合軍捕虜の問題に関心を寄せる人々が集まり、レイさんの誠実な話をきいた。 民主党 捕虜問題小委員会の勉強会:5月20日 藤田議員の尽力で民主党内に新たに設置された捕虜問題小委員会にレイさんは出席することができた。急なことだったにもかかわらず、事務局長大島九州男議員の司会のもと、藤田幸久幹事長はじめ4人の議員出席。
民主党捕虜問題小委員会勉強会 (藤田事務所提供)
ジャパン・タイムズのアレックス・マーティン氏による記事が21日に掲載された:http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/nn20090521a4.html 午前中、NHKディレクターが貴重な資料として突っ込んだ録画取材をしてくださり、昼食をご馳走になる。 成田へ向かいつつ「捕虜体験の苦しい思い出を毎日話していただき辛い思いをさせてすみませんでした。」とお詫び。翌日、福林先生と私にメールが届いた、「私も小文を書こうとして、資料を集めている。A Trip Down Memory Lane(記憶の小道を辿る旅)とするつもりだ。この1週間で64年前のきっかり1年を、同じ場に立ち、64年前のように生きなおすことができた。」大分お疲れになったようだがこの拙稿に助力を頂いた。ご助力をいただいた皆様、有難うございました。
追記: 伊吹由歌子様 レイ・ハイムバックさんの日本再訪に関する記事掲載のご連絡を頂きありがとうございました。早速に貴殿がご執筆されたエッセイを拝読致しました。 弊社四日市工場往訪の部分につきましては、四日市へのご到着からご出発までを丁寧に記載頂き、約4週間前のハイムバックさんのご来場のことが昨日のことのように思い浮かんできます。また、日本での行動が、同じようにご到着からご出発まで、丁寧に記載され、各地での場面が臨場感にあふれており目に浮かんできました。 全体を通して、やさしさと暖かさにあふれているように感じます。今回の日本再訪を契機としてハイムバックさんのPTDSが快方に向かえば、と心より祈念致しております。 弊社を代表して伊吹様のご尽力に重ねて感謝しお礼申上げます。ハイムバックさん、福林先生にもご機会があれば宜しくお伝えください。
石原産業株式会社 大平洋ランダム株式会社の中島眞一氏からも、以下の手紙が寄せられました。 伊吹由歌子様 おはようございます。お元気でお過ごしですか。富山は梅雨入り後も雨が降らず空梅雨の状態です。 先日は富山まで遠路はるばる当社をご訪問いただき有難うございました。また、伊吹様の記事を拝見させて戴き、当日の様々な情景をつい先日のことのように思い出しております。 5月18日朝に、福林様から突然のお電話を戴き、前日の17日に当社外周の捕虜収容所があったと思わ れる所を訪問され、多数の報道陣の方々が取材されたことを初めて知りびっくり致しました。当社をご訪問戴いた2時間ほどでは余り詳しいこともご説明できなかったのではと残念に思っております。 このたび、伊吹様の大変詳しく、また分かり易く書かれている記事を拝見し、レイモンドさんが捕虜となられて、その後1944年6月から、輸送船による長い日本への移送を経て、門司― 四日市―富山と移動された経緯をお聞きするにつけ、捕虜として大変過酷な体験をされたことを知りました。それだけに今回、レイモンドさんがこのつらい体験を乗り越えられ、ようやく日本を訪問される気持ちになられたことは大変良かったと思います。また、私どもの会社を訪ねていただき、レイモンドさんが作業されたと思われる場所で当時の様子をお聞きしたとき、私の入社当時―昭和35年ーの電炉作業とほぼ同じような作業をされておられたのだと思い、手振り、身振りで説明いたしました。そのことを大変喜んでいただいたとのこと、うれしく思っております。機会がありましたらレイモンドさんにもくれぐれもよろしくお伝え下さい。 最後になりましたが、伊吹様、福林様をはじめ多くの皆様が、日米の架け橋となってご活躍されてこられたことが、人々の心を開き、新たな人の輪を広げていくことに繋がっているのだと思っております。これからも一層のご活躍をお祈り申し上げます。時節がらお身体に気をつけてお過ごし下さい。
大平洋ランダム株式会社 同社の黒坂康之氏からは、POW研究会代表の福林徹氏に以下の手紙が届きました。 福林さま ご丁寧なメールと記念の写真を送っていただき大変有難うございます。 突然の訪問だったので、準備や十分なおもてなしが行き届かず失礼しました。
当社の遠い過去の歴史の一こまであった捕虜の収容については社史を編纂した時に、先輩から聞いて詩っていましたが、目前に歴史の真実を語る人が現れるとは思ってもいませんでしたので、驚きとともに大変感激いたしました。 当社にとっても、今後社史を継続して行くなかで、今回のご訪問は歴史の一ページを記録するものになると思います。 いろいろと有難うございました。 最後になりましたが、ますますの今後のご活躍をお祈り申し上げます。
大平洋ランダム㈱
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