ヴェトナム戦争の帰還者が抱える症状について始めてPTS心的外傷性ストレスということが言われるようになり、もう25年がたつ。しかし、心的外傷の体験がそのひとの成長につながるというPost Traumatic Growthは非常に新しいコンセプトである。このエッセイは当初、2003年7月15日号の米軍会報・Military Comに、ビル・ゴス氏のエッセイ「心的外傷ゆえの成長」への応答としてハロラン氏により執筆された。「心的外傷を受けたにもかかわらずその体験が後に役立っていることがあるか、あれば書いてほしい」との依頼により書かれたものである。 心的外傷ゆえの成長 第2次大戦中、私は太平洋上のサイパン島基地から飛び立つB−29爆撃機の航空士でした。私たちの任務は日本列島本州の地点に定められた目標を爆撃することでした。非常な高度での14時間から16時間の飛行時間を要する任務で, 11人の乗組員の平均年齢は21歳、私は22歳でした。
1945年1月27日、私たちのB29は東京の上空3万2千フィート(約1万メートル)の高度で日本軍戦闘機に撃たれたのです。すぐさま恐怖と事実を認めたくない気持ちとがクルーを包みました。しかし、実際には愛機を捨てなくてはならないことは皆わかっていたのです。 機体に火災が発生し、二基のエンジンが停止しました。それだけではないと警告するように、常時では気圧調整され暖かい機内で、機体の破裂により高度3万2千フィートの外気、零下58度Cの冷たさがすでに体感されました。すばやく行動しなければ冷凍人間になります。パラシュートをつけて機外に飛び出すほかはなく、しかもぐずぐずする余裕はありませんでした。 「パラシュート脱出、パラシュート脱出せよ!」と命令が叫ばれるなか、私たちは恐怖に怯える若者と少年たちでした。しかし、何とか落ち着いていました。私は自分と他のもののため神に祈りました。素早く互いに抱き合ってから、落下する機を離れ2万7千フィート(約9千メートル)の高度で、東京のすぐ東の位置で敵国上空へ飛び出しました。このような高度では凍傷や、希薄な空気による失神の怖れがあります。それを避けるため最初はただ落ちるにまかせました。地上3千フィート(約1千メートル)ぐらいに達したとき、開き綱をひくと有難いことに頭のうえでパラシュートが開きました。
たちまち激昂した民間日本人や軍人たちに捕らえられた私は、殺されるかと思うほどに殴りつけられました。私は幸運なうちのひとりで、仲間にはその日に殴り殺されたものもあったと後日知りました。
私が耐えつづけた状況の過酷さ、ひどさは筆舌に尽くしがたいものがあります。冷たい暗い檻のなかにひとりだけ拘留され、時おりそこを出されれば看守たちの激しい殴打と取り調べに耐えねばなりませんでした。食べ物は一日、二つか三つの虫のわくおにぎりでした。いつも痛みにさいなまれていましたが、医療はまったく施されませんでした。体中、みみずばれ、のみやしらみがわき、南京虫のためにほとんど眠れませんでした。体重は45キロ以上も減り、肉体的にも精神的にも急速に私は衰えていました。 戦争が終わって2週間後、私と生き残った仲間の捕虜たちは解放されました。それは1945年8月29日のことでした。私は2週間のあいだ東京湾に浮かぶ病院船、米軍艦「ヴェネヴォレンス」号上ですごした記憶があります。アメリカへの旅に耐えるだけの体力がないくらい衰えていたのです。さらに西ヴァージニア州にあった帰還兵用の公立病院で数ヶ月を過ごすはめになり、その後、シンシナテイの我が家へ帰りました。
当初は正常に戻ることは困難でした。一生懸命務めてもはかばかしくは行きませんでした。いまでも嫌な記憶を全て消し去れたわけではありませんが、以前よりはずっと良くなっています。
時がたつにつれて、頻度こそ違え、ひどい悪夢にうなされる経験をしました。いまはかなりよくなりそれほど始終悩まされなくなりました。いつも同じような夢です。空間を落ちて行きながら、なにかにすがろうとしている夢。または火と煙とひどい風、つまり炎の嵐に囲まれていたり、殴られないようライフル銃の台尻を避けようとしながら働いている夢でした。
当初は絶対にもう二度と行くものか、とわが身に宣言した日本ですが、やがてこころのうちに、変化が生まれてきました。もし行って私の二つの目で戦後の日本人を見たら(戦時中の彼らにはまったく否定的な記憶しかないのけれども)、もしかしたら自分にとってよい結果が生まれるのではないだろうか。 いまではこう思っています。私がお話したような逆境を経験して生き抜けるなら、いつか現在の生活で出会うことや問題と比較してみて、現実生活で抱える悩みのいくつかは何と小さなこと、と気づく可能性がある。それまでの人生で出会った困難がたとえどれほどひどいものでも、それだからこそなおさら、ひとは人生にもっと前向きになり、人生をよいものと思えるようになるのです。
このような前向きの変化とより高い価値観とをひとに影響を与え、私たちは私生活にも家庭生活にもまたビジネスや社会生活のうえにも応用することができると思います。 第二次大戦の辛かったあの日々があったから、自分をよく知ることができた、それが生涯の長い年月私を助けてくれたという結論に辿りついているのです。今日このときにも力になってくれている学びです。そして私はこれからもずっと学んだことをひとの成長のために役立てていくつもりです。とくに若いひとに、彼らが成長のため小さな手伝いを必要とするときに。
あとがき ひとつの忘れられない出来事が、B29の機外へ出てパラシュートにぶら下がっていたときにあったのです。突然3機の日本軍戦闘機が同高度に姿を見せ、接近して通過しました。2機はそのまま去りましたが3機めは大きく旋回してまっすぐ向かってきました。私は最悪の事態を予想しました。そのときこの機のパイロットは私に挙手の敬礼をし、飛び去ったのです。どういうことかわからないまま、しかしこのことは、もしかしたら、ほんとにもしかしたら、自分には希望があるかもしれないという気持ちにしてくれました。
1984年にはじめての日本再訪をして後、新しい友人たちのあるものがこの話に興味を持ち、このパイロットを探しはじめました。彼らはそのひとの つい最近、2004年夏の日本への旅で、私はまた彼に会おうと計画を立てました。その訪問予定の前夜、奈良にいた私は数時間まえに彼が亡くなったことを知らされました。彼の息子と友人たちに招かれ、お通夜の席に連なりました。息子さんは私が彼の父に最期のわかれを告げる機会を与えてくれました。このような折に、日本式にはどのような礼を守るべきかわかりませんでしたが、祈りました。そして59年後に私は彼に挙手の礼を返したのでした。
私たち家族は、1945年3月10日のB-29東京大空襲を目の当たりにしました。私たち家族は急遽母の実家へ疎開しましたが、東京に残った父は、その後の空襲で倒れ、薬もなく、6月30日に亡くなりました。母と4人の子供が残されました。 その後しばらくした1945年7月15日、疎開先の近くに、日本軍に撃墜された米兵がパラシュートで降下しました。憲兵隊が彼を取り押さえ、後ろ手に縛り上げ、目隠しし、郷中を引き回しました。私は、その光景を村人と共にじっと見詰めていました。 その後、その米兵は生きて本国に帰れたのだろうかという思いを抱くようになり、半世紀が経ちました。当時の噂では、直ちに処刑されたということでした。 私は、定年を機会に真相究明の手がかりを求めて、伝説のB-29墜落地点を訪ねました。その訪問記をWeb site で公開し、日米双方に情報の提供を呼びかけました。 そのSiteを日米のB-29関係者が訪問され、私の「B-29の追憶」の真相究明のための支援をいただきました。ハップさんからは、私が探していたB-29の米兵捕虜は、大森捕虜収容所で一緒に暮らし、1945年8月29日に共に開放されたという情報をいただきました。撃墜された機長の甥に当たる方からは、私のSiteで、今まで知り得なかった多くの情報を知ったという感謝のMailを戴きました。82歳のアメリカのご婦人は、弟が神戸空襲に出撃し、捕虜となり終戦直前に処刑されたけれど、その後の日米友好が嬉しいと、平和の大切さを切実に語ります。 ハップさんと私は、ハップさんが捕虜の身となった1945年1月27日から、私が疎開した3月19日までの53日間は、同じ東京の空の下にいたことになります。当時は、空の上も、下も地獄でした。 そして、私の父は死に、ハップさんは、拷問や処刑におびえ、終戦を迎えました。ハップさん、あなたは、身を持って体験した戦争の虚しさ、悲しみ、憎しみを乗り越えました。あなたは、日米友好と平和を求める真の民間大使です。 ハップさんを尊敬する日本人の一人として、私は、家の居間にハップさんの愛機THE ROVER BOYS EXPRESSの写真を飾り、「B-29の追憶」B-29 Recollections を通して戦争の虚しさを後世に伝えています。 ハップさん、お元気で。 2004.10.6 岡田邦雄
* ハロラン氏は、2011年6月7日に逝去されました。 |
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