日本軍捕虜 エッセイコンテスト

優勝者決定

米国カリフォルニア州登録の非営利団体「US-JAPAN DIALOGUE ON POWS, INC.」は、第2回 「日本軍捕虜エッセイコンテスト」の優勝者を、以下のように決定しました。

          ジェシカ・ゴードさん (カールトン大学)
      
   杉浦 祥 さん (京大学)

二人の優勝者は、2007月13日から16日までワシントンDCで開催される「American Defenders of Bataan and Corregidor」(第二次大戦初期にフィリピンで日本軍の捕虜になった米兵の会)の総会に出席します。そこで元捕虜やその家族と交流しながら、捕虜の歴史を学ぶことに関して対話をもちます。


*今回のエッセイコンテストは、ドロシー&クレイ・ パーキンスご夫妻からのご支援により可能となりました。


記憶するために学ぶこと

ジェシカ・ゴード
カールトン大学

私は昨年夏、1942年のコレヒドール陥落時にフランク要塞で捕虜となった祖父 ロイド H.ゴードン医師〔米陸軍医療部隊)の足跡を辿るため、カールトン大学から奨学金を与えられました。私は、 自分にとって最良の努力は、第二次大戦の体験に関する私の考えと疑問を、私と全く同じ状況にある人々―即ちあの戦争からたった2世代しか離れていないのにその多くの記憶からは遠く隔てられている日本兵の子孫達―と共有することだと、決心しました。

私の目的は単純なものでした。おじいちゃんがいた場所へ旅し、その間、フィリピン戦の成功と失敗、そして日本軍捕虜収容所に何年も捕われた男たちの悲惨な体験に関して、できるだけ多くの文献と伝聞を消化する、ということでした。

その過程で私が知ろうとしたことも、単純なものでした。私たちの世代は、第二次大戦に関して何を知っているのだろう。学校で私たちは何を習ったのだろう。その教育はどのような観点からなされていたのだろう。私と同年代の他の国の人々は、第二次大戦に関して何を知っているのだろう。そして私たちが知らないでいることは、何なのだろう。 もう大人で、責任ある行動を取れると自負した21歳の私は、都合よく(そしておそらく愚かにも)旅行の日程はその日まかせとし、太平洋の亡霊からの語りかけに心を開き続けることにしたのです。

私は先ずマニラに飛び、古い城壁の町イントラムロスとサンチャゴ要塞、ビリビッド刑務所(現在はマニラ市留置所)、そしてマニラのアメリカン墓地を訪問しました。黄昏のデューイ通り(現在のロハス通り)をぶらつき、かつて”東洋の真珠”と呼ばれたその町で開かれていた将校達の贅沢なパーティを想像しました。私は丸3日間を費やして、不気味なコレヒドールの森の中を歩き回り、「バターン死の行進」の一部をドライブし、ハンプトン・サイドの「ゴースト・ソルジャー」と映画「グレート・レード」で有名になった悪名高いカバナツアン捕虜収容所を訪れま した。

            コレヒドール島バッテリー・ウエィで

あまり大袈裟に言いたくないのですが、他の人間が下した恐ろしい選択により死んでいった人々の亡霊が今も彷徨っているのを、私が本当に感じたのはこの場所だったのです。”捕虜”という言葉が持つ意味の重さが、やっと分かったように思いました。そしてそのとき初めて、祖父の足跡を辿っている自分を、彼がどこかで見守っているように感じたのです。

フィリピンの旅を終えた私は、ゴード医師が地獄船「長門丸」で連れてこられた大森捕虜収容所と品川捕虜収容所を見るため、日本に飛びました。私が予想していた通り、今は東京の郊外 にあるこれらの地のいずれにも、記念碑はおろか、主要な捕虜収容所があったことをわずかでも示すものは、ありませんでした。 でも私は他の方法で、あの戦争を調査することができたのです。まず最初に、戦後処刑された何人かの戦犯が祀られ神聖に崇められている、問題の靖国神社に行ってみました。私は、”大東亜戦争”と呼ばれる戦争までの出来事と  ”大東亜共栄圏”のための戦いに関する日本の解釈に、深い好奇心を覚えました。

私が日本の若い学生と話してみたいと思うようになった一番大きな理由は、東京でのこれらの体験でした。彼らが学校で戦争について何を勉強したのか、彼ら個人にとってそれはどんな意味をもってい るのか、そしてそれは彼らの国にとってどんな意味をもっているのか、知りたいと思います。私は日本語を話しませんので、日本滞在中にこれらの疑問への答えを推し量ることは困難でした。それで8ヶ月経った今でも、それは私の体験の中でぽっかりと開いた穴として残り、私は未だにその答えを探しているのです。規範的な対話で大切な点の一つは、相手が何を知っているのか、そしてどのような形で問題提起をしているのかを理解することだと思うので、私は日本人学生と話してみたいのです。私自身が持つアメリカ的視点からだけでなく世界的 文脈から、より完結した現実的な戦争の実態を知るために。

今回の旅行を通して、さまざまな兵士(私の祖父はその1人に過ぎなかったのです)の回想録を読み、そこに描かれた人生を辿るうちに、私は思いもかけず、激しい心の葛藤に襲われました。私の感情は、次第に捕虜のそれと 重なり始めたのです。私は、多くの兵士が抱いていた
”臆病者マッカーサー”への憤りを覚え、故郷の家族や愛する者を偲び、社会意識の強い教養課程の生徒にはふさわしくない、 人種偏見にほとんど近いまでの嫌悪感を、日本人に対して感じ始めていました。東京の街を歩きながら、年老いた男性たちを見て「この中の誰かは、捕虜に自分の墓穴を掘らせてその後撃ち殺した人物でないだろうか」とか、「スーパーマーケットで杖を突いて歩いていたあの男性は、かつて私の祖父を殴った人物ではないだろうか」などと思わずにはいられなくなったのです。 それらが突飛であることは知っているのですが、旅行中に起こったことは、あの戦争が自分にとって身近なものになったということなのです。それが自分に起こったことを認めるのは恥ずかしいのですが、日本の学生に尋ねてみたいのです。彼らも、 こんな風に戦争を身近に感じる場合があるのかどうか。

私にとって、そして今中東で戦っている15万人の兵士を除いた私たちの世代にとって、”戦争”は依然として完全に現実のものではなく、本物の戦闘を見た者はわずかにすぎません。私たちの年代は湾岸戦争の前夜に生まれ、ベルリンの壁が崩れる頃にお絵かきを習い、文章で話せるようになったのです。黒がどんな色であるかをやっと習い始めた私たちにとって、モガデシュの街角に堕ちたブラック・ホークの焼け焦げた映像は、一瞬のものでした。コソボからの緊迫したニュースも、歯の矯正や思春期の心配事に追われていた私たちの目には、入りませんでした。今成人の先端に立ってやっと、私たちの年代は、体験された戦争と死の真実を認識しているのです。それでさえ、中東で実戦に就いている兵士が家族にいるか、或いは抗争に関して自ら学んでみようと野心的に決心しない限り、戦争はTVや映画で見たり、古びた教科書で読んだり、新聞のコラムで読んだりするものにしかすぎないのです。でも最も耐えがたいことは、若い私たちが、戦争がかつてどんな意味を持っていたのか、全く知らないことです。

それなのに、私たちはあの戦争(第二次大戦)そのものについてさえ何も知らないのです。私の高校の歴史教科書は、1160ページのうちたった28ページを使ってあの戦争の時代を説明していました。大戦時のアメリカ市民の様子、スィングジャズの時代、そしてかなり詳細なヨーロッパ戦線の概要などです。バターンとコレヒドールは一度も出てこず、(日本軍に捕われた)14万人の連合国捕虜のことも、学者のGavin Daws によればそのうち4分の一が死んだことも、一言も語られていなかったのです。何という教育学上の不幸なのでしょう。

他の国、特に日本の高校は、あの戦争についてどのように教えているのでしょう。私が確信を持って言えることは、私があちこちの記念碑や本で読んだ、立派なしかし理想主義的な宣言は、私たちの年代には届いていないということです。私たちは、アウシュビッツ、パールハーバーそしてヒロシマなどの名前を知っています。でも私たちは、それらを生きた人々―今の私たちと同じように理想主義者で感情的な年頃に、目に見えない理想と今日私たちがいとも簡単に冒涜している祖国を守るために、気楽な若者の暮らしを諦めた人々―からあまりにも隔てられているのです。日本でもそうなのでしょうか。

そこで私の質問です。どうやったら、記憶するために学ぶことができるのでしょう。

私たちの多くは何を学んだらよいのか分かりませんし、学校も歴史のギャップを埋めてくれませんので、私は、ワシントンDCでの捕虜の会に参加し、皆さんに直接聞いてみたいのです。第二次大戦世代の皆さんは、私たちと将来の世代に、何を知って欲しいのでしょう。何に価値を見出し、皆さんの体験からどんなことを学んで欲しいのでしょう。皆さんの苦しかった体験から何を引き出し、それを、私たちの世界を向上させるためにどのように役立たせたらいいのでしょう。私は皆さんに、私と対話してくださり、まだ時間がある間に答えを教えて欲しいと思います。2007年度のAmerican Defenders of Bataan and Corregidor 大会でこれらの問題について語り合うために皆さんとお目にかかれること、そして日本からの若い学生と会えるということが、今こうして私に書かせている大きな原動力です。

皆さんが過去の出来事に今でも苛まれているかもしれないということは承知していますし、皆さんが既に葬り去ったものを掘り起こすことこともしたくありません。私は、記憶する ために学んだ皆さんの体験を参考にさせて戴き、他の人々にもどのように記憶すべきか教えたいのです。

”歴史は、各人の見方と心の持ち方によってさまざまであり、それが記録されることにより、そしていかに記録されたかによって記憶されるものである。”  ― ロバート・マーティンデール
                                        『13回目の作戦:悪名高い東京大森捕虜収容所』


元捕虜の方の体験を知ること

杉浦 祥
東京大学

第二次世界大戦は人類史上最大の戦争であり、帝国主義の限界を露呈した― これが教科書で習う、日本の若者の中の戦争観です。そしてまた、僕達は日本にとってこの戦争が初めから無茶だった事、日本軍は精神論を重視し、強引な進軍の果てに多くの人々が病死し、多くの人々が自決・玉砕した事を知っています。もちろん日本人の様々な残虐行為、例えば南京大虐殺 、バタアン死の行進、泰面鉄道についても習いました。

しかし、それは今思うと僕の中では歴史の中の出来事でしかなかったように思います。

そのため元捕虜の方々の体験談を読んだ時も初めは日本軍の残虐さに反感を持ったものの、どこか遠い国の悪い人たちの物語のように感じていました。しかし読み進めていく中で、 ドナルド・ヴァーソー氏の「日本に着いてから、生き延びられる可能性は大いに広がりました。」という言葉は僕に深い衝撃を与えました。なぜなら、中国人・朝鮮人の日本での強制労働が過酷であった事は有名であり、ヴァーソー氏は日本でそれと同等か、それ以上の苦しみを強いられたであろうにも関わらず、日本に着いてから、自分のこれからについて前向きな見方をしていらっしゃった事に驚きを感じたからです。

僕はなぜ驚いたのか、自分の考えを突き詰めていった結果、自分がいわゆる「平和ボケ」なのだと気付き恥ずかしくなりました。僕の母方の曽祖父は陸軍中野学校出身のいわゆる職業軍人でした。祖母が8歳の時に戦死したと聞いています。僕の父方の祖父は現在88歳です。第二次世界大では近衛兵団に所属し、B-29に高射砲も撃ったそうです。今でも戦いの映画やテレビは 一切見ず、戦争の話をほとんどしたことがありません。母方の祖父本人は音楽の道に進みたかったらしいのですが、戦地で第一線に赴かせたくないとの両親の思いで医学の道に進みました。当時は非国民と呼ばれるので、そのようなことは口が裂けても言えない事でした。父方の母の兄は 満州に出征し、その後中国戦線で幼子を残したまま戦死しています。母方の祖母のいとこの一人も満州に出征し、シベリアに抑留されていました。戦死したと思っていたら1956年に最後の 引きあげ船で日本に帰ってくることができたそうです。シベリアでの凍傷で今でも爪は真っ黒です。

第二次世界大戦について知っている身内のことはこれくらいしかありません。僕は心のどこかで戦争を忘れたいと思っている戦争体験者と同じ気持ちになっていたのかもしれません。また、自分では無意識のうちに、戦争のことは触れてはいけないゾーンであるような感覚に陥っていたのかもしれません。

でも、元捕虜の方々の体験談を読んでいるうちに、それはまちがいだと気付きました。なぜなら、僕は戦争を体験していないからです。体験した人が忘れたいのと、あまりよく知らない僕が積極的に知ろうとしないのとでは根本的に違い、僕たちが知ろうとしない態度であってはいけません。

戦争が起これば多くの人々が犠牲になります。軍人も、民間人も。戦地に赴く人も、赴かない人も。そして、戦争に勝った側も負けた側も多くの人々がただひとつしかない命を落とすのです。そういう元来戦争が持つ性質上、すべてが戦争という非常事態のなせる業と包括して考える方が楽な考えでした。

しかし、最近では、日本人の戦争観を変えようとする動きが非常に活発です。アメリカの対テロ戦争に呼応する形で憲法改正や日本でも愛国心を教育しようという動き、従来の第二次世界大戦の歴史観を自虐的であるとする「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書が有名ですが、それに対抗して戦争を科学的に検証しようという動きも多くあり、僕は高校時代にそのような本を副教材に授業を受けました。しかしもちろん一方では、今でも、若者の間ですら南京大虐殺はなかったという人がいるのも事実です。前にも、バターン死の行進はなかった、と主張する人がいました。今も昔も、認めようとしない人々は、偏狭なナショナリズムのために同じ過ちを犯しているのではないでしょうか。さらに、バターン死の行進については、現在に至っては、そもそも知らない人が増えてきたということ自体も問題です。また、バターン死の行進を知っていて、それでもまだ、日本軍の残虐行為はバターンでしか行われなかったと考えるのもあさはかではないでしょうか。

なぜこんなことが起こるのか、それは、僕たちが学んできた歴史の説明が「日本人のしたこと」一辺倒だということに起因し第二次世界大戦について僕たち日本人は生まれながらにして加害者です。しかし、同時にその色分けを少しアンフェアに感じてもいます。それも、若者が事実から目を背けてしまう原因となっているのではないでしょうか。

しかし、一国のナショナリズムに縛られるだけではないのではないかと考えます。「日本人がした」歴史を学ぶなら、日本人として戦争の歴史から目を背けたくなるのは当然なことです。それならば、日本人は、「アメリカ人のされた」歴史を学び、アメリカ人の捕虜の方々の辛さに思いを馳せる事ができればよいのにと思います。全ての面で、昔と比べ、アメリカと日本の距離は縮まりました。そして、人の心は国籍や言語などと関係ありません。だから、できるはずです。もちろんどれほど多く、元捕虜の方々の体験談を聞いたところで恐怖や苦痛をすべて知る事などできないでしょう。しかし、体験談をお聞きし、知ること、考えることはとても大切なことにちがいありません。


ところで、なぜ元捕虜の方々は敢えて自分の体験を話されるのか、それも日本人に。それが、次に僕に湧き出た疑問でした。それについて、僕は随分悩みました。そして、それは相手の歴史を知ることで日本人を救う事である、つまり、元捕虜の方々が体験をありのままに話して下さることで、日本人は一度は目を逸らしてしまった事実を再び直視し、懺悔し、ひいては救われる。僕はそのことにようやく気付きました。そうして、そのために、つまり日本のために寛大にも日本人を赦して下さった元捕虜の方々に感謝の気持ちで一杯になりました。また、僕は、ドナルド・ヴァーソー氏の以下の言葉を読み、胸がつまりました。「生き残ったことへの恩は未知の人々にも及んでいます。それは、私が知らぬ間に私の生還を助けてくれた敵国の人々さえ含まれていました。」 深い愛で赦してくださった過酷な体験には重みがあります。だからこそ、一人でも多くの日本人が彼らの体験談を聞き、戦争に対する認識を新たにしてほしいと思います。

       剣道姿で

僕は人間が好きです。日本人も好きです。日本人が特に残虐な人間性を持っている人種だとは勿論思いません。しかし、事実は事実として受け止め、謝罪の気持ちを持つとともに、理性的にも身体的にも物質的にもすべて正常で存在していることができなくなる戦争が全世界から消え去ることを願います。そして、その願いが叶うように僕たちは歴史を知り、忘れることなく、さらに伝えていかなければならないと思いました。

このエッセイでは触れる事はできませんでしたが、レスター・テニー氏やルイスリード氏、アベル・オルテガ氏をはじめ元捕虜の方々の詳細な描写はそれを読む僕にとってすら辛いものでした。そのような沈んだ気分の中で、ジャック・リーミング氏やロバート・ブラウン氏が、日本兵との交流を述べて下さっていた時には暗闇の中で光を見た気分になりました。アビー・ブラハム氏が戦後も遺体を掘り起こしていた事は、日本荒廃にかこつけて戦争の残した問題を日本人が放置してきた事を実感させます。しかし、何にも増して捕虜の方が皆、偉大なる愛と勇気を持って体験談をお話くださり、現代の日本人を責めるよりむしろ、ただ暖かく自ら反省するのを期待して下さっていること、そして僕に考える機会を与えてくださったことに改めて感謝します。