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バターン死の行進生存者・三井三池炭坑で3年の強制労働 5月28日から6月6日まで、米元捕虜レスター・テニー博士が来日した。今回は全米捕虜組織であるADBC=American Defenders of Bataan and Corregidorの最後の会長として、元捕虜たちを代表し、彼らによるカンパで実現した日本訪問である。「私達米捕虜は、日米双互の理解を深め、赦し、和解、友情を築くため、過去10年にわたる英・蘭の元捕虜への対応と平等に、米捕虜と家族をも日本へ招待する基金の設立を望む。」という捕虜たちの願いを伝える目的で、政府、経済界のトップに面会を求め日本へきた。 5月29日は夕方7時半より、テンプル大学 ICJS=Institute for Contemporary Japanese Studies(ディレクター、ロバート・デュジャリックさん)がホストの第1回講演と質疑の会が行われた。バターンの行進に「死」という言葉がついた理由は、捕虜たちの死に方であり、死者の数の多さではない。頭に銃撃、心臓に銃剣、将校が日本刀で斬首した。12,000の米兵、54,000のフィリピン兵士が捕虜になり、さらに軍の庇護を求めてバターン半島にきたフィリピン市民、総計10万を超える行進だったが、日本軍の情報収集能力は不十分でこれは彼らの予期せぬ数だった。
テンプル大学日本校で
米軍は食糧・弾丸ともに底をつき、4月9日の降伏にいたる数ヶ月、最後は1日800カロリー、マラリア、赤痢などの疾病で全米比兵は体力が消耗していたことも日本軍は知らなかった。見張りの日本兵は(実行を予期したかは知る由もないが)「歩かなければ殺せ。」と命令を受けており、日米の兵士たちは互いに言葉が通じなかった。疾病、水・食物の不足。歩けず、倒れれば殺された。一番つらかったこと?友達が殺されるのをただ見ていなくてはならなかったことだ。 テニー博士と学生たち
1966年に一泊のつもりで家に泊めたのが、100日の滞在となり父と子のような親しい関係となった。86年には彼の結婚式に招かれて夫妻で来日。空港で彼と抱き合ったとき、日本人を許せている事を実感した。 今回江田五月参議院議長と面談した際も、テニー博士は田坂氏との友情を語った。「私たちは本当に親しくなり、私の日本観と日本人観はすっかり変わりました。たった一人のこの青年のおかげで、全てが変わったのです。私は許すことを学びました。過去を忘れはしませんが、かつて自分を過酷に扱った国である日本の人と友人になれること、そしてそれで自分が幸福になれることを、学んだのです。」 ( 写真:田坂徹氏・澄子夫人と テニー博士夫妻)
テニーさんの講演のあと、神への信仰を質問され、テニーさんはこう答えた。「聖書の神は人間を赦し、そして私たちにも赦すことを求める。それに従い、私は憎しみから解放された。」 (写真:福林氏のガイドで霊山神社へ)
フィリピン14方面軍報道部大尉だった人見潤介さんが発言を求められ、テニーさんたちの苦難へ誠意あふれるSorryにはじまり、15分ほど話された。「日本軍の予期に反した多数の捕虜を移動させねばならず、日本兵も同じくマラリア、赤痢などに悩み、行進の監視兵たちからは週2,3人の死者も出て彼らを荼毘に付しつつの任務遂行であった。あの戦争全体の検証が、まだこれからなされなくてはならない課題である」。テニーさんも通訳を聞きつつ、一度、コメントをはさんだ。「日本兵は倒れても殺されることはなかったでしょう?」 シベリア抑留はなぜ起こったか、原因解明と労働賃金補償をもとめ日本政府を相手どり訴訟中のシベリア元抑留者も、立って発言された。「テニーさんと同じ思いで、二度とあのような戦争悲劇を起こさないために検証を求めています。」互いの理解を深めるひとつの場となり、テニーさんも通訳を求めて伝えた。「あの戦争に関わったものたちが思いを語る場となったことはとても良かった。米捕虜だけに関わる問題ではない。」
「大手まりはテニーさんの誕生月7月の花。 花言葉は 忍耐強い愛情です。きてくださって有難う。」
善通寺収容所の軍属会計だった父上のアルバムから当サイトへ写真を寄贈された吉田文夫氏も参加してくださった。 吉田氏の善通寺写真アルバム
当日昼間は霊山神社へ京都部隊の慰霊碑を参詣したのち、霊山観音を訪れた。境内の「メモリアル・ホール」には、日本軍捕虜として命を落とした連合軍捕虜死亡者の国連への提出資料コピーが収められている。
東大名誉教授により発せられた現在の米の戦争にテニーさんの意見を問う質問は、他の会場でも聞かれた問題だった。限られた時間を自ら見聞きした自分の体験と訴えにフォーカスするテニーさんは、「イラク戦争への意見を求める討議はあとで個人的にしましょう。ひとつだけ言うと、私は拷問には反対だ。」と答えた。 また、十代の頃大牟田で、三井炭鉱で働くために毎日行進させられる捕虜を見た、という長田勉氏も参加した。 テニーさんの著書(邦訳 「バターン 遠い道のりのさきに」梨の木舎刊)を読むと、バターン半島の兵士たちが一度ならず、「見捨てられた」体験をしていることがよくわかる。現在イラクなどにいる米兵には、帰還してから元兵士に与えられる奨学金目当ての貧しい若者も多い。「君たちのことを想っているよ、祈っているよ、待っているよ、と伝えるのはとても大事なことなんだ」。夫妻は高齢者住宅の仲間たちと、一週間50の慰問箱を送るボランティ活動をしている。男女兵士たちから、個人の必要品リストを受け、メッセージとともに発送する。返事ももらう。ベティ夫人によると「幸い、自分たちが担当した中にいまのところ死者はない、でも息子の一人は、悲しいニュースを受けたことがある」。 テニー博士の慰問箱プロジェクト: http://www.youtube.com/watch?v=Diah0uKEFRg 「わだつみのこえ記念館」見学者の感想ノートにご夫妻はそれぞれコメントを残した。「この記念館、私には非常に意義深い。実に多数の若者が死ななくてはならなかったーー悲しいことだ。この記念館を訪問できてとても嬉しい。元捕虜・レスター・テニー」」「記念館をお訪ねでき光栄です。この若い人たちの家族は子供を失いどんなに悲しかったろうとよくわかります。ベティ・テニー」 4日の星陵会館でも、他の質問者に加え、比島戦元日本兵3人が話され、テニーさんはThank youと大声で応えていた。松下政市さん(戦犯容疑者としてモンテンルパに拘留)、「戦車に突っ込む爆弾もなくなり4月29日、捕虜になった。捕虜収容所で優遇のあと、戦犯容疑者として拘留されたが、まもなく20人ほどで一般捕虜収容所に移された。そこで木材を負わされ、九州で解放された元捕虜たちの悪口雑言のなか、一日中所内の丘を登り降りさせられた。終わると、そのひとりが木陰に招きポケットにラッキーストライクを詰め込んでくれた。俺は九州で、ある日本兵にとても世話になった。かわりにお前に恩返しする、と言ったのが勘でわかった。」 熊井敏美さんは機関銃小隊長として42年3月からバターン戦を戦い、4月3日からの総攻撃にも参加。「バターンの米軍降伏後、部隊はバランガから第一回目の捕虜護送役を命じられた。自身はマラリアでダウンしていたが、部下を含む部隊員たちは約1,000人の捕虜を20名くらいで護送しなくてはならず、大変苦労した。護送の分隊によっては、行き倒れの捕虜が車輌などの下敷きにならぬよう道路わきに引っ張りよせ手をあわせ行進を追いかけたと報告を受けた。資料写真で、<日本軍は殺された兵士たちをフィリピン民間人が見るよう強要した。>とあり、こんな説明もあるのかと驚いている。」 会の最後に徳留絹枝さん(US-Japan Dialogue on POWs, Inc. Executive Director)が「なぜいままでこのような対話がなかったのか、これが第一歩となることを望みます」と締めくくった。
4日はまた、4年間をシベリア・モンゴルで強制労働に従事した7名の元抑留者と夫人に話し、各自の自己紹介や質問を受けた。明日何が起こるか分からない不安、戦争が終わるまえ、または解放される前に自分の命が終わるかもしれないという懸念を共有し、空腹であらゆるものを食べた、など共通する体験に「オナジ、オナジ」とテニーさん。
「生きられると考え、おめおめ捕虜になったお前らは卑怯で犬畜生以下だ。これから命ある限り、そのように扱ってやる」(オドネル収容所長)というさげすみは受けなかった。むしろロシア人から労働を感謝されていたとシベリア抑留者は語る。人間の尊厳を痛めつける精神的ダメージは、テニーさんたち連合軍捕虜の特徴的体験で、22歳で帰還したときは自分自身を犬以下と信じていたと思うとテニーさんは言う。自尊心を取り戻せず酒におぼれたり、家庭崩壊、自殺した戦友も多い。他国の捕虜と平等または同じ待遇をしない日本政府は、いまも彼と仲間を犬扱いだと感じている。 テニーさんの訳書を読んでショックを受けたという菊地敏郎さんは(「翻訳者の言葉」中)、「01年瀬戸ヶ谷小学校での講演に応え、子供たちがテニーさんに書いたエッセイに感動した。」テニーさんはよく覚えていて嬉しそうに拍手した。 1945年3月に応召の木下聖太郎さんは「自分は福岡の人間。召集されるまで福岡一般市民配給の豆かすを炊き込んだご飯を食べていたが、テニーさんたちは?」と質問。「私たちは白米ご飯だけ食べていた。一度、看守たちが犬数匹をひっぱってきて、食べたことがある。」とテニーさん。白米だけの食生活は脚気を起こし、現在も後遺症に悩むひとが多い。脚の痛み、対策として足指切断にいたることもある。著書によると塩の支給が一度もなく、発汗の激しい炭坑労働に耐えるよう製塩用の細工をつくり海水から手作りした。
(写真:TBS のスタジオでインタビューを受ける)
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