ジョー・アレグザンダー氏は、元日本軍捕虜米兵の組織である
American Defenders of Bataan and
Corregidor の全米代表を、2000年度と2006年度の2回務めた。彼は、日本軍の捕虜になった米兵の中で最も若いうちの一人である。彼は1990年代後半から何回か日本を訪問し、かつて収容されていた捕虜収容所跡地を訪ねた。大森捕虜収容所跡地を訪問した時の様子は、米軍の新聞である
『Stars
and Stripes 』で以下のように紹介された。
アレグザンダーは、捕虜だった年月について、つらそうな様子でぽつりぽつりと語る。それらはつらい思い出なのだ。しかしアレグザンダーは、2年以上受けた身体・精神療法と、特にこの10年間参加してきた元捕虜の会が、”それを耐えた者だけが理解できる”と彼が言うところの捕虜体験を受け入れるのに、役立ったと言う。 ジョー・アレグザンダー氏とのインタビュー たった15歳で捕虜になったそうですが、どうしてそんなことになったのですか。 1941年7月、テキサス州サンアントニオで入隊したとき、私は14歳でした。徴兵事務所には、祖母を連れて行きました。彼女は英語が喋れなかったのですが、係官たちは、答えがイエスなら首を縦に、ノーなら横に振ればよい、と言ったのです。彼らが、私が入隊できる年齢に達しているかと聞いたとき、私は祖母に首を縦に振るように言いました。彼女はそうしました。それで私は入隊したのです。 それから私は、陸軍航空隊の兵器技術工として訓練を受ける為にニューメキシコ州のアルバカーキに送られました。そこに約2ヶ月いて、それからサンフランシスコのエンジェル島に行きました。陸軍の輸送船に乗船し、フィリピンに着いたのは1941年の10月でした。 そして真珠湾攻撃があり、戦争が始まったのです。私たちの部隊はミンダナオに移りましたが、そこで私が15歳だということがばれてしまいました。彼らは私を米国本土に送り返すことに決めましたが、私が乗るはずだった船が日本軍に爆破されてしまったのです。それで私はフィリピンに留まることになった、という訳です。 捕虜になった後、私は日本に送られ、川崎の鉄工所で働かせられました。その後大森の捕虜収容所に送られ、そこで終戦を迎えました。 その頃のことで、最も記憶に残っているのはどんなことですか。 来る日も来る日も、私たちは夜明け前から一日中働いていました。夜になっても、一晩中気をつけの姿勢のまま立たせられ、眠らせて貰えなかったことも何度かありました。眠らないまま、翌日も仕事に行かなければなりませんでした。そうしなかったら、ライフルの台尻で殴られるのです。 戦争が終わった時、何歳でしたか。 18歳でした。でも収容所から解放されたのは、19歳の誕生日から2日後の8月25日でした。 最近、謝罪を受け取る為に川崎の鉄工所を訪問なさったそうですね。そのお話を聞かせて頂けますか。 はい。それは2003年のことです。その頃までに私には、以前の日本訪問中に知り合った2人の友人がいました。捕虜の歴史を研究していた長澤のりさんと大森捕虜収容所の職員だった八藤雄一氏です。彼は戦時中もよい人でした。 私は彼らに、戦時中の私の奴隷労働に対して謝罪を求めるために川崎の鉄工所に行ってくる、と言いました。友人のどちらも、アポイントメントがなければ駄目だと言いました。私は「いいえ、彼らは会ってくれるさ。」と言いました。それで私は川崎にでかけ、鉄工所の門で「入れて下さい」と頼んだのです。警備員は英語がわかりませんでした。そうしたら中からアメリカ人が出てきて、何の用事かと聞きましたので、私は、社長に会いたいのだと答えました。彼が社内に戻ると、今度は2人の日本人男性が出てきました。彼らは少し英語が話せて、私にバッジをくれると会社内の会議室に連れて行きました。日本人の2人は通訳の人と一緒に座りました。私は、自分が元日本軍捕虜でこの鉄工所で奴隷労働をした者であると、彼らに説明しました。私は、そのことに謝罪をして欲しいのだと、言いました。 社長はその場にいませんでした。私は、滞在している山王ホテルに帰るバスが来るので帰らなければならない、と言いました。すると彼らは「いえ、いえ」といって、ホテルに帰るタクシーを呼んでくれました。彼らが、また来社するつもりかと聞いたので、翌月にまた来ると答えました。 それで私はまた行ったんです。前回にあった人たちが全員会議室のテーブルに座っていました。お茶もクッキーも出ました。通訳がいて、私たちはまた話し合いました。今度は社長もいましたが、彼は発言しませんでした。彼らが、また来るのかと私に尋ねたので、「はい。謝罪をして欲しいのです。」と答えました。彼らは山王ホテルまでのタクシーをまた払ってくれました。
それから私は通訳に、鉄工所の日本人従業員の中には私たちを助けようとしてくれた人もいたことを、山本さんに伝えて欲しいと頼みました。彼らは親切だったと。そのことを私が言った途端、状況がすっかり変わったのです。山本さんは「私は文書で貴方に謝罪を差し上げることはできないのです。」」と言いました。「分かっています。でも私は謝ってほしいのです。」と私は答えました。 彼らはしばらく日本語で話し合っていましたが、通訳がこう言いました。「山本氏が、お詫びするそうです。」 テーブルの端にいた山本さんは立ち上がり、私に向かって頭を下げました。通訳が「山本氏は、文書での謝罪はできないが、奴隷労働についてそしてあなたが酷い扱いを受けたことについて、申し訳なかったと言っておられます。」と言いました。 私は、自分が望んだものが得られて、泣き出してしまいました。彼が心から謝っていることが、私には分かったのです。 あなたが泣いたとき、社長や他の日本人社員の反応はどのようなものでしたか。 彼らの顔や様子から判断して、彼らは、謝罪が私にとってどれほど重要なものであったのか理解したと、私には思えました。彼らは、私がその謝罪を誠意あるものとして受け入れたことにも、気づいていました。 満足なさいましたか。
謝罪を受け取った後、喜びで全身が張り裂けそうでした。謝罪を得られこと、そしてその謝罪が誠実なものであったことを知り、とても嬉しかったのです。それは私を本当に変えたと思います。とても満足しました。鉄工所を去るときの私は、それまでの人間とは別人でした。私は日本人には何の悪意も持っていません。今では日本人の友人もたくさんいます。 インタビュー後記 謝罪を得て泣いた思い出を語るときも、アレグザンダー氏の目は潤んでいた。私は、川崎の鉄工所の日本人たちが、彼の涙を見てどのような感慨を抱いたのか想像せずにはいられなかった。 当時は捕虜強制労働訴訟が係争中であったから、社長が文書でアレグザンダー氏に謝罪できなかったことは、理解できる。それでも私は、彼が口頭で謝罪したことに勇気づけられた。彼にとってその体験が、アレグザンダー氏にとってそうであったと同じ位に、よい体験であったと思いたい。 (インタビュー:徳留絹枝)
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